ロボットが泣いた日
「猫がさ、車に轢かれたんだ。早朝の明るい交差点で。白い猫だった。毛並みが綺麗で、たぶんどこかの飼い猫だったんじゃないかな。その猫が車に轢かれて、体の半分が潰れてた。でも、まだ生きてたんだ。小さな、本当に小さな声で鳴いてた。誰か助けてって、痛いって鳴いてたんだきっと」
青年の怒りは大きくなる。今にも破裂し飛散していきそうな渦巻く怒りが、青年の中で膨張し続けている様だった。
「そうしたら、そこに居た人たちはどうしたと思う? 猫が目の前で轢かれて、まだ生きてるのに、誰も足を止めようとしないんだよ。それどころか何も見てないふりをする。私は無関係だ、きっと誰かが助けるに違いない。そんな顔をして通り過ぎていくんだ。これって異常だよ、正常じゃない」
青年の目の前には、きっとその時の光景がリアルに浮かび上がっているのだろう。組んでいる手に力が籠り、指の先が白く変色していた。
「少し手を伸ばせば届く距離に傷ついた生き物がいても、人は目を背けてそれを拒否するんだ。もし、轢かれたのが人間なら、状況は全く違った筈だ。轢かれたのが猫だったから、誰も助けなかった。誰も助けようとしなかった。それって、理不尽過ぎるよね」
青年もまた、世界の理不尽さに憤りを感じていた。少年と同じ様に、世界に絶望した人間だった。
「幻滅したよ、人間っていう生き物と、自分自身にね。……僕もまた、同じだったんだ。猫を助けようとしなかった大勢の内の一人だった。目の前で息を引き取った猫の姿が記憶に刻み込まれたみたいに消えないんだ、ずっと……きっと一生消えない」
抑揚のなかった青年の声が激情を孕む。内側で暴れる獰猛な獣を押さえ込んでいるみたいに苦しげな、それでいて震えた声。
怒りに見開かれた双眸が、まるで鬼の様だと徹は思った。
「この世は理不尽だ、理不尽だらけだ」
低く、唸る様な声で吐き捨てた後、青年は長く重い溜息を吐くと自分を取り戻した様に静かな呼吸を繰り返した。
「それから、僕はある考えに取りつかれる様になった。世界は、一体どれほどの理不尽を黙認するのかってね」
「……」
先ほどの激情とは打って変わり、また静かな声色で青年は言葉を続けた。
何故かそれに、再び背筋を走る悪寒を感じた。
「何の罪もない人が死ぬのを、世界は黙認するのだろうか。そう、あれは……実験だった」
背筋の悪寒が酷くなる。何故か呼吸が苦しかった。
「たとえそれが尊い命だったとしても、きっと世界は救いの手を差し伸べはしない。この世に、正義のヒーローなんて存在しない。それを確かめたかった」
青年はもはや徹の存在さえ忘れてしまった様に、何かに取りつかれた様に言葉を綴り続ける。
何故かその先を聞きたくないと思った。
「あの日は、朝から天気が良くなかった」
心臓が痛い。酸素を吸い込む肺が苦しい。背筋の悪寒が治まってくれない。
「暗い林の中を宛ても無く歩いてた。そしたら雨が降って来て、何か、可笑しな気分だったんだ。酷い破壊衝動に襲われていた」
駄目だ、この先を聞いてはいけない。逃げなくては、何故かそう思った。
「そんな感覚の中、雨が降ってるのも気にしないで歩いてたら、目の前に白い花がいっぱい咲いてたんだ。そこに、小さな女の子がいた」
徹の動機は既に酷いものになっていた。幾重も汗が流れて筋を作り、酷い緊張に喉がからからに乾いていた。体の奥から凄まじい熱量が発生している。
「僕に気付くと、女の子は笑ったよ。可愛い子だった、本当に。何してるのって聞いたら、四つ葉のクローバー探してるって、お兄ちゃんにあげるんだって、笑ってた」
そう告げる男の顔は不気味なほどに歪んでいた。笑みを刻んでいるのか、憤りに歪んでいるのかも分からない、おぞましいものを感じた。
「可愛くて、無防備な子だったよ。呆気ないくらいに、簡単に死んでしまったけれどね」
「――」
横で少年が息を飲む気配に気づいた男が、ゆっくりと振り向いた。どこまでも暗い、深淵の瞳で。
「そう、僕が殺したんだ。ポケットに忍び込ませていた、これで……」
男はポケットを探ると、何かを取り出した。よく見ればそれは、小さなカッターナイフで、根元の部分が黒く汚れていた。
「何回も何回も、女の子の体を切りつけた。血が出て、痛くて泣いてたよ。あの時の猫みたいに」
徹はその時になってやっと、目の前の男が異常者である事実を知った。
自分と同じ、殺人者であると。
「その内、動けなくなってしまったみたいで、白い花の上に横たわったまま泣き続けてた。白い絨毯みたいな花の上に、赤い水溜りが出来ていく光景が綺麗だったよ」
男は感嘆にそう告げた。
その時だ、少年の中で忘れていた怒りが吹き上がったのは。
菫が殺された時でさえ感じなかった底なしの様な憤りが、刹那にして徹の全てを食い尽くした。
目の前が真っ赤な闇に染まり、思考が焼き切れる音を聞いた。
「僕はそのまま女の子を置き去りにした。もし、この世に神様っていうのが存在するなら、きっと女の子は助かる。けれど、この世が惨酷な理不尽だけの世界なら、きっと女の子は助からないだろうと思った。出血がひどかったし、雨も降っていたから、直ぐに体内の血液が足らなくなるだろうと思ったよ」
全身が許容しきれない怒りの所為で冷たく沈んでいく。四肢が戦慄いて、叫び出したい衝動に襲わる中、徹はただじっと男を睨みつけていた。
「その後、警察が村にいっぱい来て、ああ、やっぱりあの子は助からなかったんだって分かったよ。世界が理不尽に埋めつくされている事もね」
男の双眸が再び徹を見据えていた。その目はもはや隠しようもない獰猛な獣の色をしていた。
「ねえ、世界って惨酷だよね。君もそう思うだろ? だから死にに来たんだろ?」
「……」
同意を求めようとする男の顔には、殺人者の仄暗い息遣いがある。
「僕も同じだ。あの子が死んだ事で、僕もまた死のうと思った。こんな世界に未練はないし、生きてても理不尽に振りまわされるだけ。だから死んでやるんだ。死んで、この世界に報復してやる」
その台詞と共に、男が手にしていたカッターナイフの刃を音を立てて取り出した。
同時、徹の鼓膜に響く凄まじい警鐘。
殺す気だ、この男は菫だけでなく自分までを殺すつもりなのだ!
「君も死ぬんだったら、殺されても同じだろう? 君で、最後の実験をさせてくれ。世界が残忍なものでしかない証明をさせてくれ」
早口にそう男が告げたのと同時、徹は勢いよく立ちあがると一気に走りだしていた。その瞬間、足首に痛みが走ったが僅かにバランスを崩しただけだった。
徹が走りだしたのと同時に男がカッターナイフで細いその足首を切りつけたのだ。
後一歩遅ければ腱を切られていた。
切れた靴下の間から赤い血が流れ出ている。
走る度に痛む足首など気にも留めず、徹は我武者羅に走った。
背後を追いかけてくる男の足音と息遣いが、数歩離れた距離から聞こえてくる。
吐き気さえ催す様な恐怖がひたりと徹の背にしがみ付いていた。
久しぶりに感じる、体の奥底から発生する震えが走る程の慄きに徹は完全に狼狽していた。
恐怖、怒り、そして悲しみ。