ロボットが泣いた日
こんな静かな夜に死んでいけるなら、それはもしかしたらとても幸福な事なのかもしれない。
不意に笑い出したい衝動に駆られた。それでも徹の表情は能面の様に動きはなかったが、内側に息づく感情は確実に歓喜さえしていた。
「……」
だが、心地よいその静寂を斬り裂く様な物音が不意に徹の鼓膜を揺らした。
未だ遠い微かな物音。それを漠然とした面持ちで聞いていた。
それは、何者かの足音の様だった。何故かこちらに真っ直ぐ近づいてくる気配を感じる。
どうするべきか。
徹は悩む。見つかればきっと大騒ぎになる。
けれど徹はその場を動けないでいた。
近づいてくる足音に不穏なものを覚えたからだ。
それはやはり人の足音に違いなかった。何となく、戸惑う様な、不規則な足音にも聞こえる。
がさがさと雑草を踏み潰しながらゆっくりと、彷徨いながらそれでも真っ直ぐに近づいてくる気配。
一体誰が、何の為にこんな山道を歩いているというのか。
それに僅かな興味を覚えたのも事実だった。
相手がこちらの気配に気づくまであと数歩。
徹は息を殺し、草木の影に隠れる野生動物の様にじっと相手の気配を探った。
このままここに留まれば確実に相手にもこちらの存在を悟られる。けれど徹はそれ以上に相手の存在が気になって仕様が無かった。
何故かは分からない。けれど今、目の前からきっと現れるだろう相手と対峙しなければいけない気がした。
心臓が緊張に戦慄いている。
酷い圧迫が、あの木々の影から迫って来ている。
額から汗が流れ落ちる感覚を覚え、徹は内心で自嘲した。
何を恐れているのか、自分でもよく分からなかったのだ。
目の前の草木が揺れ、その人物が数歩離れた場所まで近づいている事を悟った。
緊張が最高潮にまで達し、すっと全身が冷たく震撼した。
「――うわ!」
ざっと目の前の草木が割れ、その人物がぬっと顔を出す。
驚いたのはそこから姿を現した男の方だった。
まさかこんな所に子供がいるなど思いもしなかったのだろう。
「え、子供? な、何してるの?」
男は僅かに狼狽した様子で少年を見ていた。
徹は些か気抜けを感じた。
まるでとんでもない化け物でも顔を出すのではないかという妄想が脳裏を支配していたからだ。
「あー、びっくりした。君、こんな所で一人でいたら危ないよ」
「……」
落ち付きを取り戻した男がゆっくりと座ったままの少年へ近づく。
男は、奇妙な恰好をしていた。
暗くて顔はよく見えなかったがまだ歳若い青年の様に感じる。
青年は薄いTシャツ一枚に、緩いスエットの様なズボン、そして踏み潰したスニーカーという近所のコンビニにでも来た様なラフな格好だった。
全体的に影の薄い印象を受ける。
「……何してるの?」
「……」
更に近づいてきた青年が不思議そうに少年の顔を覗き込む。やはりまだ若い男だ。
切れ長の目に鼻筋の通った顔。唇は薄く全体的に整った顔立ちではあったが、何故か酷く印象に残らない顔だ。
何も答えない少年に、青年は気を悪くした様子もなく不思議そうに小首を傾げていた。
何かを考える様な顔つきになったかと思えば、何故か青年は暗闇でも分かる程に笑みを浮かべていた。
「ああ、分かった。……君も僕と同じだ」
そう呟かれた青年の声を聞いた瞬間、再び徹の背をそっと冷たい戦慄が駆け抜けていった。
「君もここに死にに来た。どう、当たってる?」
青年の言う事は図星だ。それに微か、徹が驚いた顔をすれば青年は更に可笑しそうに顔を歪める。
「あはは、まさか僕の他に先客がいるなんて思いもしなかったよ」
青年はとうとう声を上げて笑いだした。その様が、何故か酷く歪に見えた。
「と、言う事は僕と君は同志と言う訳か。なんか皮肉だな」
そう呟くと、青年は何を思ったのか少年の横に腰を下ろした。暗闇の森の中、大の大人と子供が揃って座り込んでいる光景は中々に滑稽だ。
しかし徹は、この行き成り目の前に現れた不可思議な男に言い様のない興味をそそられていた。同じ目的を持った相手。だがそれだけではない何かが、男を奇妙で歪な存在に見せている。
「ねえ。どうやって死ぬつもりなの?」
身を乗り出し、興味津津といった風に疑問符を投げかけてくる青年は、本当に今から死のうとしている人間なのかと思うくらいに明るい声色をしていた。
「……分からない。でも、その内、死ねると思う」
ひとり言の様に抑揚なく呟く徹に青年は、ふーん、と鼻を鳴らしただけだった。
どちらも喋らないまま、また少し時間が過ぎた。
夜明けの空は未だ見えない。
可笑しな状況だ。自殺志願者が二人、何を語らうでもなく同じ空間を共有している。
こんな死に方もあるのかと、漠然的に思った。
「……ねえ、少し話しを聞いてくれるかい?」
「?」
徐に青年が口火を切った。それと同時に夜風が辺りを吹き抜けていく。
「僕が死のうと思った理由」
「……何?」
青年は幼さの残る顔で悪戯っぽく笑って見せた。
少なからずもそれに興味をそそられる。青年に感じる印象は決して自殺者という言葉が似合わなかったから。
「僕はね、この村で生まれ育ったんだ。何もない所だけどいい所だ。世界の喧騒もなくて、静かで、それでいて寂しい村だ」
青年の顔にはもう笑みはなかった。
まるで昔話でも語る様な口ぶりに自然、意識が引き寄せられる。
「僕はこの村が好きだよ。とは言っても、少し前までは東京に居たんだけどね。事業に失敗して出戻りさ。両親も戻ってこいって言ってくれたし、村に戻るのに抵抗は余りなかったかな。東京での暮らしはそれなりに楽しかったけど、寂しくもあった。あれだけ人がいるのにあの町は人と人との関わり合いが少ないよね。皆、自分の事だけで手一杯って感じで。……山奥の村からやってきた何もない男になんて誰も興味さえ持たなかった」
青年の言葉もまた、ひとり事の様な響きがあった。胸の奥から湧きあがる言葉を音として吐き出しているだけの行為にも思える。
「始めから、僕には何もなかった。お金も、才能も、意思の強さもね」
そして青年はまた乾いた笑みを浮かべた。それが自嘲である事に徹は直ぐに気が付いた。
「会社を作って、人を集めた。けれど人脈も後ろ盾もない僕には、東京で会社を経営するなんていう大それた事、出来る筈なんてなかったんだ。会社は、すぐに潰れたよ。辺り前だよね、社長がこんなんじゃ、社員だって付いてきてくれる訳ない」
会社が潰れる。それは東京では毎日の様に繰り返される事ではあったけれど、それに関わった人間の人生は大きく左右される事になる。
徹の父もまた、会社が倒産し職を失った一人だった。
「でも、会社が潰れて、だからって世界に絶望した訳じゃないんだ。あれは自分の勉強不足だったし、無知故の失敗だった」
青年は遠くへと視線を彷徨わせていた。その瞳に言い知れぬ怒りが漂っている。
「僕が世界に……いや、人間というこの世を作った生き物に絶望したのは、あの光景を見た時だ」
青年は饒舌だった。ずっと誰かに打ち明けたかった思いの丈を全て吐き出す様な衝動さえ感じた。