ロボットが泣いた日
暗闇を見つめる徹の双眸は、既に人のそれとは異なる色をしていた。
死に向かう瞳。
その目はどこを見ているのだろう。
まるで何かに取りつかれた様に、あるいは何かを追い求める様に、徹はただひたすらに足を進めた。
不思議と、疲れは感じていなかった。
家を出てからどのくらいの時間が経ったのかさえ定かではない。
月のない夜は時間の経過さえ不確かで、自身の存在さえ闇と同化し蕩けていく様でもあった。
徹の脳裏には、ずっとあの時の映像が再生され続けている。
父を殺した雨の日の映像と、そして菫が死んでいたあの、白いシロツメクサの群生が網膜に深く刻み込まれた様に消えてくれない。
白に鮮明に浮かぶ赤い鮮血。そして傷だらけの体。
あの後、村では大騒ぎになった。
警察も何人も来た。
犯人は捕まっていない。
三百人もいない小さな村で起きた残虐的な殺人事件は、直ぐに村中に広まり、同時に村の人全員が事情聴取を受けた形だった。
それでも犯人の影も形も浮き上がってはこなかったのだ。
始まったばかりの捜査は行き成り暗礁に乗り上げていた。
犯人が村人であるのか、それとも外から来た人物であるのか、男であるのかも女であるのかも分からない現状。
警察は焦っていた。しかしそんな警察とは裏腹に、被害者家族は誰も犯人の特定を重要視していなかった。
被害者家族の調書を取った警官はそれを危惧していた。
この家族は、犯人への怒りさえ忘れてしまった様に虚脱し、絶望してしまっている。
このままでは、きっとこの家族は駄目になる。
それは警官の感でもあり、恐らく間違いではない予感でもあった。
村人も皆、その家族を同情し憐れんだ。
幸福そうに見えた家族は、この事件によって色あせ、全く別の形へと変貌してしまった。
それに心を痛める村人は多く存在し、また犯人の手掛かりになればと警察の捜査にも協力的だった。
それでも一向に事件は解決の糸口を見つける事さえ出来ずにいた。
けれど、徹にも、また楓や佐久間にもそんな事はどうでもいい事だった。
唐突に世界から消えてしまった菫。
ただ菫が戻ってきてくれはしないか。不意にあのシロツメクサの花の中からひょっこりと顔を出すのではないか。
そんな妄想に縋りつく事しか、三人には出来はしなかったのだ。
菫が死んだと言う事実が思考を掠める度、涙が溢れだしどうしようもなくなる。
けれど、徹だけは未だに泣く事さえ出来ていなかった。
菫が死んだ事実を未だに容認する事が出来ていないのもあったが、それ以上に、菫がいなくなってしまった事への自身の感情が分からなかった。
絶望は確かにしている。けれどそれはこの理不尽な世界に対しての絶望であり、菫が死んだ事への悲しみが上手く理解出来なかった。
それはやはり、感情が未だ欠落した状態であるが故の欠陥だった。
うまく機能しない徹の内部は、もはや人とは呼べない程に歪でグロテスクな形をしているのかもしれなかった。
どこまでも暗い山の奥から不意に冷たい風が吹き抜けてくる。
いつの間にか全身が汗に濡れていて、吹きつける風にぞっと背筋に震えが走った。
同時、足を止め何気なく木々の隙間から空を仰いでみる。
月はない、けれど煌めく数万の星々が一心に徹を見下ろしていた。
その光景はどこまでも美しくて切なかった。
泣く事さえ忘れた少年は、ただ一人、この真っ暗な山の中で死ぬことを選んだ。
世界に絶望し、自身の生を嫌悪し、生きる事にさえ酷い徒労を覚えていた。
がくりと膝が折れ、徹は壊れた操り人形の様にその場へ座り込んでしまった。
深い雑草の中で、じっと自身の膝を抱えたまま、顔を埋め暗闇の中へ溶け込んでいく。
このまま朝までここに居れば、死ぬ事は出来るだろうか? 何も食べず、飲まず、寝る事さえせず、ただじっとこの場に留まっていれば、その内に死ぬ事は出来るだろう。
乾いた空気の中、瞬きをすればその度に浮かぶ菫の亡骸。
無残な姿を晒し、何も映らなくなった瞳は硝子玉の様に綺麗なまま曇天の空を仰いでいた。
静かな夜、徹は死に向かって生を削る。
これで終わる事の出来る事に、少なからずの喜びさえ覚えていた。
皮肉な事に、死のうと思ったこの時、徹はやっと感情の動きを取り戻した気がした。
ただ一つ、気がかりなのは楓の存在だった。
いつも守ってくれた母。世界の痛みから必死にこの身を庇い、時には傷つきながら、それでも楓はただ一心に守り続けていてくれた。
その母を裏切り、死に向かおうとしている自分はやはり愚かで、どうしようもなく愚かで、それでいて世界に愛されない存在でしかないのだ。
徐々に体が暗闇の中へ溶け出していく感覚があった。
このまま何もかもを闇に浸食され、腐敗していく事だけが今の徹の望みだった。
***
今夜は、月がない。
まるで私の為にある夜の様だ。
暗い世界は罪人である私の姿を隠してくれる。
だからこそ、私はまるで日常から解き放たれた様に夜の世界を練り歩くのだ。
この時だけが、私に許された自由なのだ。
寝床を抜け出し、外へ出て、世界への絶望感を吐きだす様に夜道を謳歌した。
誰も無いない村の中は静まり返り、この世に自分一人であるかの様な錯覚を覚えた。
光は無い、人の気配もない。
まるで背に羽が生えた様に私の体は軽かった。
今ならなんだって出来る。そんな蒙昧的な感覚が私の中に芽生えていた。
真っ暗な中、煌めく星を仰いだ時、私の中で何かが弾けた。
そうだ、もう、私は解放されたい。
この何もない無機質で惨酷な世界から旅立ってしまいたい。
今ならきっと容易に出来る筈だ。
その思い付きは酷く恍惚と私の中を満たしていった。
消えてやろう、この世界から。
それだけが私に出来る世界への抵抗だったのだ。
何故もっと早くに気付かなかったのか、私は自分の愚かしさを揶揄しながらも、軽やかな足取りで村を抜けた。
終わりはやはり森の中がいい。
野生の生き物しかいない、真っ暗で、地獄の様な深い森の中がいい。
私はそこにこの身を埋もれさせながら、自然の中で腐敗し土へと返るのだ。
何と素晴らしい思い付きだろう!
今にも駆けだしてしまいたい衝動を抑えながら、私は村の外れにある山を目指す。
低い山を越えた先には、地元の人間も立ち入らない樹海とまではいかないが深い山がある。
あの中ならば、さぞ静かにこの夜から消え入る事が出来るだろう。
そうだ、死んでしまえばもう罪の意識に苦しむ事は無い。
私が今までに殺した子供たちの亡霊に悩まされる事もないのだ。
***
何の音もなく、何の光もなく、輪郭さえおぼろげな空間の中でひっそりと呼吸を繰り返す徹の気配に気づく生き物はない。
時折、思い出した様に遠くの方で山犬が鳴いていた。
山の夜は冷える。
晩春であるにも関わらず、感じる冷気は異常な程に冷たく乾いていた。
それでも徹は身動き一つせず、じっと自身の膝を抱いたまま微動だにする事はなかった。
徹の心は今までない程に落ち付いていた。
静かな夜に心が洗われる様な気さえしていた。
悪くはない。何となくそう思う。