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ぼくらのふねはワルツをおどる  1.ゆずれないもの

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「頼んだよ」
 いつもより強めに横腹を叩いたつもりだったが、瞬也は表情一つ変えずに背を向けると後ろ手にひらひらと手を振った。
「余裕でなによりだよ瞬ちゃん」
 振り返れば俊樹は何でもないように笑顔を浮かべている。こういうとき瞬也の後ろが俊樹で本当によかったと思う。白い歯を見せて差し出された手を合わせると、乾いた空気にぱちんといい音が響いた。
「俊樹、まかせた」
「おうよ、あのバカエンジンの手綱を取るのは俺だぜ」
「上等。振り落とされるなよ」
「そこだよなぁ」
「大丈夫、フォローはするから」
 桟橋はタイミングよく空いていた。急いで艇のいちばん後ろにつくと、二人の背中が自分の声を待っているのがわかった。大きく息を吸い込む。
「手をかけて。持とう、イチ、ニ、サン」
 緩やかな斜度の桟橋をゆっくり上っていくと、なみなみと水を湛えた川面が目の前に広がる。橋の上で見た時と変わらず、足を入れたらそのまま滑っていけそうなくらい穏やかな流れだった。 
「すげー鏡!テンション上がるな瞬ちゃん!」
 声をかけられた背中は何も返さなかったが、ボート乗りでこの川の状態を見て嬉しく思わない奴はいない。きっと瞬也が一番うずうずしているんじゃないかと思った。ここ数日風が強くて乗艇練習ができない日もあった。だからこそ今日という日に遅れてしまった自分が恨めしい。
「俊樹救命具持った?」
「もちろん。予備もばっちり」
 川に浮かべた艇を押さえながら、オールを張る二人を見届ける。すでにオールを張り終え、瞬也はシートに取り付けられたピッチ計の調子を確認していた。瞬也、と呼びかけると、横に視線だけがまっすぐ飛んできた。
「今日は波に邪魔されることもない」
「おう」
「イラつくから漕がないなんて言わせないからな」
「いわねーよ」
 唇に薄い笑みが浮かぶと、川を臨む横顔の目がぎらりと光ったように見えた。飢えた獣はきっとこんな目だろうか。でも俺は瞬也のもっと乾いた目を知っている。からからに乾いてもなお、前に進もうと叫ぶ目だ。まだ同じ艇に乗っていたころは、コックスとストロークで毎日顔を突き合わせる位置にいた。そうだった日はもうずいぶんと遠く感じられるのに、あの目の光だけは今でも鮮明に思い出せる。
「なっちゃん!」
 びくりと肩が跳ね上がってしまった。すでに二人は準備を終えて、羽織っていたジャージを脱ぎ始めていた。
「…ごめん、ぼけっとしてた」
「どしたの、なっちゃん。瀬田に会うのがそんなに嫌か?」
「そういうんじゃないよ」
 脱いだジャージを受け取りながら笑って返したけれど、俊樹は腑に落ちない様子で俺の顔を覗き込んできた。慌てて首を振る。
「大丈夫だって。そりゃあいつは好きじゃないけど、練習とは関係ないし。うまくやるよ」
「ならいいけど」
「夏紀、」 
 名前を呼ばれて振り返ると、瞬也がジャージを差し出してきた。言葉よりも先に届いた視線は相変わらずまっすぐこちらを射抜いてきた。 
「どうせ、煙草吸いに来るだけだろ。何言われても適当に聞き流しとけよ」
「そーそー、勝手にやれって言ってんのはあいつだし。瞬たまにはいいこと言うね」
「おまえはいつも余計なことしか言わない」
「ユーモアだよ瞬ちゃん」
「うるさい」 
 二人が言い合いをしている間に、ジャージはすっかりきれいに畳まれた。我ながら無意識の動作に感心してしまう。単純作業は頭の中をシンプルにしてくれた。余計なことは考えない。今は目の前の練習に集中する。それだけだ。
「ほら、後ろ待ってるよ。早く行った行った」
「はいはい。ほら、瞬が意地張るから怒られた」
「お前今日ちゃんとついてこなかったらぶっ飛ばすからな」
「おーこわ」
 二人は艇に乗り込むと、俊樹の掛け声でそろって桟橋を蹴った。艇が桟橋をゆっくり離れていく。後ろに乗る俊樹がオールを動かすと、艇はゆっくりと進行方向を対岸へと移していった。いいぜ、と俊樹が言ったのが小さく聴こえると、瞬也と俊樹のオールがそろって水を掴んだ。のびやかに水面を滑っていく艇がさらに小さくなっていくのを眺めていると、急に空気の冷たさが身に染みてきた。それを振り払うように、俺は足早に桟橋を後にした。