ぼくらのふねはワルツをおどる 1.ゆずれないもの
ジャージに着替え、軽めのアップを終えると、予想どおりの瞬也の顔が待っていた。俊樹よりも上背があって、肩幅もがっしりとした瞬也が眉間に深々と皺を寄せていると、普通の人はかなり近付きにくくなるらしい。艇庫はちょうど出艇ラッシュで込み合っていたが、瞬也の周りだけはぽっかり穴が開いたようで、人の流れも瞬也を避けるように動いているのが分かった。入念にストレッチをする背中におはよう、と声をかけると、切れ長の鋭い目がこちらを向いた。返事はない。
「ごめん瞬、待ったっ」
やたらはしゃいだ声で俊樹が顔の前で手を合わせると、瞬也は無言で舌打ちをした。いつも通りの反応に俊樹は全く動じることなく、つれないねぇ、と笑いながら隣でストレッチを始めた。
「瞬也、俺が遅れたんだ。俊樹は待ってくれてただけで、」
瞬也の目は人よりも大きい気がするのに、見つめられるとぐさりと刺さるような鋭さがある。それは瞬也が人を見るとき、目しか見ていないからだと気づいたのは、結構最近のことだ。
「今は日も短い。乗艇練習の時間は貴重、なんだろ」
「…ごめん」
いつかの自分の言葉を繰り返されれば、申し訳ないのと悔しいのでそれしか言えない。
「なーんだよ瞬、なっちゃんばっかり責めんなって。だいたいお前は早すぎるんだよ、ホームルーム終わって5秒で消えてただろ」
「お前がだらだらしゃべりすぎなんだよ」
「いやー、みんなに引き留められちゃってさ、人気者はつらい」
瞬也はそれ以上は何も言わなかったが、眉間の皺はそのままだった。こういうはっきりしたところが、瞬也の良いところでもあり、扱いづらいところでもある。しかしそんなことをいつまでも引きずる奴ではないことも分かっていたから、俺は急いで出艇の準備を始めた。
この艇庫はこの川で乗艇する団体のほとんどが利用する場所だ。俺たち南浜高校の他にも、もう一校北川高校のボート部もここを利用している。うちとは打って変わって部員も多く、十数近くのクルーがいるマンモス部なので、一見するとこの艇庫は北川高校の城にしか見えない。俺たち3人は毎度肩身狭くここをお借りして活動している身だ。しかしいつも一番にくる瞬也の威圧感のおかげで、艇を出すスペースに困ったことはあまりない。スペースに馬(艇を乗せる台)を並べ、二人に声をかけて艇庫に入る。
薄暗い倉庫の中に整然と並ぶいくつもの艇を見ると、決まって腹の底をくすぐるような昂揚感がわいてくる。それだけは最初にここへ足を踏み入れたときから変わらない。学校からも少し離れた秘密基地のような場所。細いフォルムの艇の先端がそろって出口を向いているのは、出撃を待つ戦闘機のようにも見える。その反対側、艇の全長を見通せる位置に立つ。歩きながらそのつるつるした艇の横腹を撫でた。自分の中では、相棒に対する挨拶みたいなものだ。二人が横についたのを確認する。
「手をかけて。持とう」
10メートル以上もある艇が二人の肩に乗り、浮かび上がる。カーボン製の艇は見た目よりも軽いのが特徴だが、どこかにぶつけたりするとすぐに傷がついたり穴が開いたりしてしまう。後ろからまわりを見渡しながら、ゆっくりと艇庫の中を進んでいく。
「俊樹まえ平気?」
声をかけるとおー、と返事とともに片手が挙げられた。馬の横まで出たところで二人の足は止まる。
「手をかけて。刺そう、イチ、二、サン」
かけ声とともに艇は二人の頭上に高々と持ち上げられる。すぐさま、返そう、と声をかけると、頭上の艇は二人の頭上から半回転しながら降りてくる。ちょうど水に浮かぶ時と同じ形で、馬の上に艇が置かれた。すぐに軽いリギング(艇の調整)に移る。
「そういえばさ、」
瞬也はリギングの工具を受け取ったときに、思い出したかのように言った。
「今日あいつ来るって言ってたぞ」
自分の表情がにわかに変わるのを抑えることができなかった。すかさず俊樹が爆笑した。
「なっちゃん、瀬田嫌いすぎでしょ!」
ピーマン前にしたガキみてぇ、と俊樹は笑い転げていたが、ピーマンならまだ可愛げがあると思った。瞬也が不思議そうに首を傾げたから、とりあえず分かった、とだけ返した。
「でも今さら何しに来るのかね?さぼり?」
「どうせ監督責任でまた教頭に怒られたんじゃないの、」
語尾が刺々しくなるのが自分でもわかった。どうしてもあの人のこととなると、感情が波立つのを制御できない。
もともと、部活の顧問というものは活動の際、生徒に怪我や事故がないように見届ける監督責任がある。特に水上で行われるこの部活は、そこらへんが厳しく、前までは水上に顧問がモーターボートで出ていないと出艇できないという決まりがあったのだ。それまでの顧問は、ボートの経験は全くない先生ばかりだったが、一応モーターボートに乗って自分たちの練習を眺めるくらいのことはやってもらっていた。しかし今年、新顧問挨拶の時「国語教師の瀬田です」と名乗った後にあいつは堂々とこう言い放った。
「お前らがここでどう活動しようと俺は一切口を出さない。お前らの好きにやれ。俺はボートのボの字も知らないからな。でもここでお前らが溺れたり死んだりしたら、その責任を取るのは俺だ。だから俺がその責任を取る代わりに、お前たちは自分たちを守る責任を取れ。十何年も生きてりゃ、それくらいできるよな」
呆気にとられた俺たちにお構いなしに、それ以来瀬田はほとんど川に姿を現さなかった。取り残された俺たちは、止む無く自分たちで北高の顧問に掛け合い、頭を下げて自分たちの練習の監督を申し入れた。北高の吉野先生も相当困ったと思う。一緒の場所で活動しているとはいえ、大会に出れば必ず対戦相手になる学校同士だ。その無理を承知で、俺たちはそれにすがるしかなかった。幸い、吉野先生の好意で技術的な指導はしない、という約束で監督を引き受けてもらい、今はなんとか無事に活動できている。その交渉のほとんどは自分がやった。あの時の胃の痛さが、きっと今のイライラにつながっているんだろう。
とりあえず、あいつが来ようと来なかろうと関係ない。イライラを腹の奥にしまい、二人分のオールを桟橋に運んだ。ちょうど帰ってきたところで、二人のリギングも終わっていた。声をかけずとも、二人とも艇の横に並んで待っていた。
「じゃあ、今日は昨日に引き続きインターバル練習。レートは26から34でピッチよりもしっかり二人で水を掴むことを意識して。瞬也はレート管理をしっかりやること。俊樹は瞬也の力に流されないようにしっかりついていって」
「ほーい」
俊樹は手を上げて、瞬也は黙って頷いた。今日はいいかなとも思ったけれど、やはり心配で付け足してしまう。
「で、ちゃんと水上でも会話しなよ」
「だって。よろしく、相棒」
背中を叩かれた瞬也は舌打ちこそしなかったが、眉間の皺はすごいことになっていた。俊樹はにこにこ笑っている。そんな光景を見てもはらはらするようなことはもうほとんどなくなったけど、不安が消えたわけじゃない。しかめ面の瞬也の名前を呼ぶと、彼は面倒くさそうに頭をかきながらぼそりと、わかってる、と呟いた。
作品名:ぼくらのふねはワルツをおどる 1.ゆずれないもの 作家名:こめぞー