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幸福の指輪

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エンディング 罪と罰


 目の前の光景が理解出来ない。
もはや、ごまかしようのない現実が目の前にあるにも関わらず、ぼくの頭はそれを受け入れる事が出来なかった。
だって、どうして……こんなこと。
誰がどう見たって、目の前の光景は疑いようのない物であるはずなのに、それだけにぼくは目の前の光景を否定したくて仕方がない。こんな残酷な事、受け入れられるわけがないんだ……。
壁にもたれて、母さんが死んでいた。
事実だけを淡々と述べるのなら、そうなる。
優しげだった瞳には、もはや光はなく、虚ろになった瞳は、じっとこちらに注がれている。
どうして……母さんが?
まったく、理解することが出来なかった。
母さんの口は、まるで何かに絶句した様に、中途半端に開かれている。まるで……何かを言いかけた様に。
母さんの身に何が起こったのであろう。視線を走らせて、死因を探ると、それは一目瞭然であった。しかし、それだけに理解が出来ない。
母さんの喉元には、何かで穿った様な穴が空いていた。その穴を見るに、それは弾丸によってあけられた物であるのだと推測出来る。
しかし、問題はそこだった。なぜ、母さんの喉に弾丸による傷がついているのか。
考えを巡らせてみても、母さんが被弾する様な場面は思い描けなかった。
この家の中で発砲したのは、警部だけ。しかし、彼と対峙していたのはぼくである。なのに、なぜ母さんが被弾しているのか……。
彼が拳銃を発砲したのは、しかもただの一度である。母さんが被弾したとするのなら、犯人はその弾丸に他ならなかった。
警部が発砲した瞬間を、思い返してみる。ぼくは咄嗟に身を伏せて、弾丸はぼくの頭上を通過し……。
「あっ……」
そこまで思い浮かべて、母さんの死の真相に思い至った。
無慈悲なくらいに鮮明に、事実が浮き彫りになっていく。考えてみれば、本当に単純な事だった。
振り落とされたぼくに向けて、警部が発砲し、ぼくはそれをかわしたが……弾道には母さんがいた。
壁に手をつき、立ち上がろうとしていたのか、本当に間の悪い出来事である。不運というしかなかった。
母さんが壁に手をつき、立ち上がろうとした丁度その時、警部が拳銃を発砲して、無関係な母さんが被弾した……。
「あの時……ぼくが弾丸をかわさなかったら」
言葉に出して、悔やんでみても、もはや事実は変わらない。
ぼくが弾丸をかわしたから……母さんは被弾して、死んでしまった。
しかし、あの状況下で、他にどんな行動をとれば良かったというのだろう。
身をかわさなければ、己が被弾し、無事に回避に成功しても、母さんが被弾する。
 どちらにしても、選択の余地なんてなく、あまりに残酷な二者択一だった。
「母さん……母さん」
いくら、名前を呼んでみたところで、もはや母さんは答えなかった。
肩に手を触れ、揺すってみても、虚ろに体を前後させるだけで反応は無し。
疑いようもなく、母さんは死んでいた。
ねぇ、お願いだから起きてよ……。
そう、口にするのはあまりにも無責任な事だった。だって、彼女を殺したのは―。
ピチャリピチャリと、水を踏みしめる音がする。
「これが、貴方の望んだ幸福ですか?」
淡々とした口調で、あの女が問うた。
「違う……違う、こんなのは……」
それは、あまりに明瞭で、それでいてとても皮肉な問いかけだった。
いくら、否定しようとしても、事実は決して変じない。
「いくら、否定しようとしても、これは貴方の選んだ結末なのです」
冷淡な口調で女は言った。
そう……たしかにそうだ。今この瞬間をどれだけ嘆こうとも、全てはぼくの選んだこと……。あの時、ぼくが彼女の指輪を盗んだりしなかったら、今頃こんな風にはなっていなかっただろう。あるいは、再び浜辺に出向いたりしなければ、あの警部と出会って霊安室に行ったりしなければ……。全ては、ぼくの選択。ぼくの選んだ選択が連なって、今この現状に至っているのだ。
「ごめんよ……母さん」
母さんを助けるつもりで、動いていたはずなのに、結果として、ぼくは彼女を不幸な結末へと誘ってしまった……。
「ごめん……。本当に……ごめんね」
どれだけ謝っても、償える事じゃないけど、ただぼくの気持ちは知ってほしい。
ぼくは、他に何の考えもなく、ただ母さんに長生きしてもらいたかっただけなのだと。
そのためには、何でもするつもりだったけど、まさかそれが、裏目に出ちゃうなんてね……。
「指輪は、もう返すよ……」
背後に立っているであろう彼女に、ぼくは語りかけた。
「母さんが死んじゃって、もうぼくには必要のない物だから……。変に強情張っちゃって悪かったね」
虚ろになった、母さんの瞳を閉じてやりながら、ぼくは彼女に謝った。
例え、ぼくにどんな差し迫った理由があったにせよ、彼女にしてみればただ厄介事に巻き込まれただけなのである。その事に関しては、言い訳の余地なんてなく、ぼくが謝らなければいけない。
スッと体を屈めて、彼女が指輪を拾ったのが、気配で分かった。
「貴方の方こそ、差し迫った状況があったのをわたしは理解しています。だから、今回の事に関して、貴方を恨んでいるわけではございません。母上さまの臨終に関しても、心の底からお悔やみ申し上げます。わたしの方こそ、貴方の力になって差し上げられずに申し訳ございません」
「いいよ……そんなの」
彼女が、そんな風に思っているなんて、意外だった。てっきり、ぼくが指輪を盗んだ事を黒い感情をもって恨んでいるかと思っていたのに。
母さんの死を目の当たりにして、少し心も虚ろになっていたのに、少しだけ穏やかな心地になれた。
「ただ、最後に一つだけ、ぼくのお願いを聞いておくれよ」
「分かりました。わたしに、出来る事であれば」
「警部の……警部の銃を取ってほしいんだ」
ぼくの言葉を聞いて、彼女もすぐにぼくの考えを理解しただろう。
自分で自らの命を絶つなど、愚かな事だと自分でも分かっている。分かってはいても、もはやこの世界に、ぼくが生きていく理由なんてなかった。ただ一人、幸せにしてあげたいと思っていた母さんがいなくなってしまったんだ……もはや、ぼくに生きている意味なんてない。
上に伸ばした手に、冷たい金属の感触が伝わる。渡された拳銃を、ぼくは静かに受け取った。
「自ら命を絶つなど、残念な事ですが、止めても貴方はきっと止めないのでしょうね」
呆れた様に言う彼女に、ぼくはふっと苦笑した。
「うん……もう、この世界を生きている意味なんて、ぼくにはないからね」
ぼくは、すっと息を吸う。目を閉じ、深呼吸をして、心を落ち着けた。
「ぼくは、母さんに会いに行くよ……同じ所にいけるかは分からないけど、彼女の傍に行きたい」
向こうの世界では、母さんの病は治っているのだろうか。母さんは元気になっているのだろうか。
ぼくは、幼い頃母さんに連れられてピクニックに行った事を思い出す。
作品名:幸福の指輪 作家名:逢坂愛発