風のごとく駆け抜けて
私達の所に帰って来た葵先輩と麻子にお疲れ様を言い、私はアップへと出かける。
800mの準決勝のためだ。
その準決勝。
私は予選と同様に全体のトップで決勝へと進出した。
その後に行われた、女子1500m決勝。
スタートと同時に先頭に立ったのはなんと葵先輩だった。
応援のためにスタンドに立っていた私は、後ろに座っていた永野先生を見る。
「私の指示だよ。オーバーペースでもなんでもいいから、いける所までは、全力を使い切ってでも先頭で走り続けろと指示してある。順位もタイムも悪くて良いから、とにかく先頭でいけと」
その意味するところが私には分からなかった。
なぜそんなことをする必要があるのか。
どうしても知りたかった私は、永野先生に尋ねてみる。
「簡単なことだ。澤野が1区で区間賞を取ったら、2区を走る大和は城華大付属に追われる展開になるからな。今のうちにそう言う状況を経験しておいた方が良いだろう」
色々とツッコミたいことがあった……。
私が区間賞を取ることが前提なこととか、葵先輩が2区を走ることになっていることとか……。
それを再度尋ねると「さっきの予選の走りを見て、湯川はアンカーの方が良いと判断しただけだ」とあっさりと答えが返ってくる。
「その麻子が苦戦中」
久美子先輩がトラックを見て、心配そうな声を出す。
「あれも永野先生の指示ですかぁ」
紗耶の質問に、永野先生はため息交じりに、
「ただ単に、予選で体力を使い切ったんだろ。それは私も分かっていたから、湯川には一言、最後まで気持ちを切らすな。とだけ言って送り出した」
と答えていた。
麻子は予選の様なキレはまったくなく、後ろから4番目辺りを必死に走っていた。
スタンドから見ても脚が重く、かなりきつそうだ。
葵先輩が先頭を引っ張ったまま400mを通過する。
2番手に貴島由香、3番手には同じく城華大付属の岡崎祐さんが付いていた。
結局、葵先輩は1200mまで先頭をひっぱり続けた。
貴島由香が、無理に先頭に立つ必要がないとみて、そこまで先頭で走ららせていたと言う方が正確なのかも知れないが。
ラスト300m、貴島由香は先頭に立つと、葵先輩と岡崎さんを置き去りにし、あっさりと優勝をしてみせた。
タイムはおそらく彼女の自己ベストだろう。
先頭から下がった葵先輩は、岡崎さんに抜かれ、ラスト100mでさらに3人に抜かれ6位でゴール。
終わって帰って来た葵先輩に聞いてみると、1200mまでで、気力も体力も使い切ってしまったとのことだった。
麻子にいたっては、予選で見せたキレのある走りはまったく出ず、足取りが重いまま、14人中12位でゴール。
それでも、高校初、いや、人生初のトラックレースでいきなり決勝に残ったのは、たいしたものだ。
そして次は私の番。
「それでは、出場者をレーン順に申し上げます」
定番のアナウンスが流れ、選手紹介が始まる。
中学生の時も1500mで何度かこうして紹介されたが、待つ間はなんとも言えない緊張感だ。
緊張しながらも、自分のスタートランに立ち、呼ばれるのを静かに待つ。
「第3レーン。澤野さん、桂水高校」
紹介を受けると左手を上げ、その場で一礼をする。
それと同時に後ろのスタンドから声がする。
「せ・い・か!」
駅伝部のみんなが大声を張り上げていた。
それを聞くと不思議と笑いが込み上げて来る。
全員の紹介が終わり、「位置に着いて」の合図。
これで昨日、今日合わせて3度目のスタート。
予選の時は緊張したが、今はまったくと言っていいくらいそれがなかった。
ピストルの音にいち早く反応し、勢いよく走り出す。
予選、準決とは違い、周りの選手も最初から積極的に走る。
100mを過ぎて、オープンになった時点で私は3番手だった。
普段のレースならここで落ち着いてレース展開を見守るところだ。
しかし、今回ばかりは勝手が違った。
決勝のアップに行く前に、
「どんな展開になっても、常に前へと出続けろ。2番手3番手辺りで待機とかは禁止だからな。その上で優勝をかっさらって来い」
と永野先生に念を押されてしまったからだ。
私は、3番手から先頭へと出る。
まだ、レースが始まったばかりだからか、それとも私が予選、準決と圧倒的なタイムで走ったからか。
誰も抵抗することなく、あっさりと先頭へと出ることが出来た。
先頭に出ても私は必死で走る。
腕を力強く後ろへと振り、腰から体を前へと出すと同時に母指球で思いっきり地面を押し、どんどんと前へと進んでいく。
800mは距離が少ない分、スピードの出る種目だ。
走っていると自分のスピードで周りに風が起きているのが分かる。
まだ夏の暑さを若干残した日差しと、その熱を反射して来る地面。
そのおかげで体から湧き出てくる汗。
それとは対照的に秋の気配を装い、若干冷たさを持ち合わせた小さな風が、湧き出たばかりの汗をすぐに蒸発させて行く。
汗を蒸発させていく風が気持ちよく、私はこの風をもっと感じたいと思った。
今、決勝を走っている私を含めた8人の中に、風を感じたいから走っていると言う人間はいったいどれだけいるのだろうか。
もしかしたら私だけかもしれない。
いや、正直な所、私自身、こんな思いは初めてだった。
自分のスピードが作り出す風との戯れに夢中で、ふと我に返った時は、ラスト1周の鐘がちょうど鳴り止んでいた。
ホームストレートを走っている最中も、スタンドの応援がまったく耳に入って来なかった。そればかりか、電動計時すら見ておらず、自分の通過タイムすら分からないありさまだ。
ただ、背後に人の気配は無く、先頭を走り続けていることは分かる。
それが分かれば十分だ。
残りの1周も私は風を追い求めて走り続ける。
「さぁ、先頭の澤野さん、残り30m。これは好記録が予想されます」
今度は、はっきりとアナウンスが聞こえる。
いや、アナウンスだけでは無い。
「聖香! ラスト!」
「頑張れ聖香!」
「聖香! ファイト」
みんなの応援もしっかりと聞こえている。
私は、「ちゃんと聞こえたよ」と返事をするように、そして風に「ありがとう」とつぶやくように、左手を空に向かって掲げ笑顔でゴールした。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻