風のごとく駆け抜けて
大学生になって分かったのは、えいりんの作る料理がものすごく美味しいと言うことだった。
家での料理は、ほとんどえいりんが作ってくれた。
その代りに私は掃除を頑張った。
借りた部屋が2LDKで、それをお互いの個人部屋と共通のリビングダイニング、共通のお風呂、トイレ、洗面台と別けていたが、えいりんの部屋以外の掃除が自然と私の担当となっていた。
大学に進学し、私達は2人して陸上部に入部する。
しかし、一応陸上部と言う部は存在していたものの、ほとんど休部状態。
大学には土の400mトラックが設置されているのにだ。
結局、私とえいりんで一から陸上部を復活させたようなものだ。
この時私は、葵先輩と久美子先輩の苦労を身に染みて感じることとなる。
土の400mトラックがあるにも関わらず陸上部が無いと言うのが、桂水高校に随分と似ていたが、その後の部活もまるで桂水高校の歴史をなぞるようだった。
私達が2年になると下級生が一気に入ってくれ、私達が4年生の時には、なんと全日本大学女子駅伝にまで出場してしまった。
その全日本大学女子駅伝で私は、明彩大へと進学した宮本さんとエース区間で対決することになった。
偶然にも同時にタスキを貰い、最後まで競り合い、私が2秒差で勝つ。まるで私が高校1年時の県高校駅伝1区のような戦いに、2人してゴール後笑ったのも良い思い出だ。
その時、宮本さんに進路を聞くと、
「もう十分に走ったから。自分の中ではもう悔いは無いわね。小宮ともいやと言うくらい何度も対戦したしね」
と笑顔で返して来た。
宮本さんは大学で競技を辞め、今は桂水市役所に勤務してる。
たまに市役所へ行くと、忙しそうに働く宮本さんを見かける。
よく見かけると言えば、やはり恵那ちゃんだろうか。
テレビや陸上雑誌にしばしば出ている。
恵那ちゃんにいたっては、本当に「すごい!」の一言だ。
中学3年の時点で3000mの記録が9分18秒。
高校はもちろん城華大付属に進学。
2年生の時に8分55秒を出し、県記録を更新。
3年生の時には日本選手権5000mで社会人に交じって3位に。
そのまま大学へ進み、4年後に5000mの日本記録を更新。
オリンピックへも出場し、決勝まで残ったこともある。
朋恵と同じく、今でも現役だ。
「まぁ、オリンピックにも出ましたけど、聖香さんの日本選手権連覇記録には勝てないんですよね。私も3000m障害やろうかな」
私に会うたびに恵那ちゃんは冗談でそう言って来る。
私は大学生の時に、専門種目を3000m障害にしていた。
結果だけを見れば、大学4年間、国内レースでは3000m障害で負け無し。高校3年生の時を合わせれば、日本選手権5連覇。
自分が持っている物を含め、日本記録を5度も更新した。
これは永野先生と由香里さんの力が大きかったのかもしれない。
大学1年生の時に、永野先生経由で日本選手権の案内が来た。
もちろん3000m障害での出場だ。
ただこの時、大学には女子用の3000m障害の台が無かった。
いや、全国的に見てもかなり少ないと思うが。
土日などの休みに実家に帰り、桂水高校で練習させてもらおうと永野先生にお願いした時だった。
「と言うよりだな。昨年の高校選手権の時に、卒業記念に澤野にやると言っただろ。あの障害、誰も使って無くて正直邪魔なんだよ。本気で、澤野にやるよ。確かそっちの大学もうちの高校と一緒で土の400mトラックなんだろ。学校に許可を取って置かせて貰え。私と由香里で大学まで運んでやるから。あ、私達が入れるように、学校への申請とかもやっておいてくれよ」
最初は何かの冗談かと思ったが、本当に永野先生と由香里さんは熊本までやって来た。
それも私が高校3年生の時、グランドへ障害を運んで来たあのユニックに2人で乗って来たのだ。
でもそのおかげで、大学でもしっかりと障害の練習ができ、3000m障害の無敗記録へと繋がったのだから、本当に永野先生達には感謝してる。
「まぁ澤野には、お礼を言われる以上に凄いものを見せてもらったんだがな」
つい数年前、永野先生と思い出話をしている時に、大学まで障害を運んで来てくれたお礼を言うとそう返された。
凄いものが何を意味するのかは自分でも分かっていた。
私は大学4年生の時に3000m障害で世界選手権に出場したのだ。
その年の世界選手権は名古屋で開催された。
永野先生をはじめ、麻子や紗耶など、当時の駅伝部メンバーが応援に来てくれた。
その応援もあってか、私は女子3000m障害で、日本人初の世界選手権決勝進出を果たした。
その年の私は、まさに目が回る程忙しかった。
強化合宿への参加に、テレビ出演。雑誌の取材。学生の本分である卒業研究に、教員免許を取るための教育実習。一緒に住んでいたえいりんには本当に色々と助けてもらった。
そのえいりんも大学で栄養学をを学ぶ傍ら、インカレ1500mで2度も優勝をすると言う成績を残し、卒業後は千鶴と水上さんのいる実業団へ、選手兼チーム管理栄養士として言う異色の肩書を引っさげて入部。
4年前に引退し、今は桂水市の病院で管理栄養士として働いている。
もちろん、私にも多くの実業団から勧誘が来た。
陸上界では私の進路が注目の的になっていた。
でも、そのすべてを丁重に断った。
私には夢があったから。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻