風のごとく駆け抜けて
朝、何かの物音で目が覚めた。
まだ辺りは薄暗い。
携帯で時刻を確認すると4時40分だった。
「このまま散歩に出かけても良いかな」
そんなことを考えていると、また何か音がする。
眼が覚めて聞くと、物音では無く声だと気付く。
それも隣で寝ている梓の方からだ。
「まったく。梓ったら寝言なんか言って……。今日が駅伝当日だと言うのに、大物と言うか何というか……」
そう思いながら梓の方を見て、異変に気付く。
「梓?」
あきらかに寝言では無かった。
なんと言うか、うなされている。
薄暗い中、手さぐりながら梓のおでこに手を乗せる。
梓のおでこはものすごく熱かった。
そう言えば、昨日のミーティングの最後でくしゃみをしていたが、まさか風邪を引いたのか?
とにかくこうしてはいられない。
先ほど時刻を見た携帯を手に取り、永野先生に電話をする。
何度か呼び出し音が鳴り、永野先生が電話に出る。
「なんだぁ? 澤野? こんな朝っぱらから」
今の電話で起きたのだろう。
永野先生は寝とぼけた声を出していた。
「永野先生。梓が大変なんです。どうも高熱を出してるみたいで」
「ちょっと待ってろ。すぐそっちに行く」
私の声で電話越しの空気が変わったのが分かった。
はっきりとした声で、それだけ言って永野先生は電話を切った。
「ちょっと聖香? それ本当?」
麻子が布団から起き出して私に聞いてくる。
紘子と朋恵も眼を覚ましたようだ。
私が事情を説明しようとすると、永野先生と由香里さんが部屋に入って来る。
永野先生が点けた電気で、アリスと紗耶も眼を覚ます。
「おい、大和妹大丈夫か?」
永野先生は梓に近付き、私がしたように梓のおでこに手をやる。
私達も全員起き上がり、梓の側に集まる。
手を出した永野先生が、一瞬だけかなり渋い顔をした。
「由香里。お願いがある!」
梓のおでこから手を離すと、永野先生は由香里さんの方へ素早く体を向ける。
「どうしたのよ……」
「今すぐ大和妹を病院に連れて行ってくれない? 目の前にある県道を、競技場とは反対の方向に行ったら、夜間対応の大きな総合病院があるはず。それで診断が終わったら、診断書を取って来て」
「診断書? わざわざ?」
緊迫感あふれる永野先生とは対照的に、由香里さんはのんびりとした声を出す。
「大会のルールで、当日変更は8時半までに、医者の診断書を添えて申請しないといけないのよ! お願い。時間が無いの」
当日変更……。
その言葉に私達はお互いの顔を見合わせる。
「那須川」
「は……はい」
「4区を那須川に入れ替える。大丈夫、お前も立派な桂水高校女子駅伝部の一員だ。だから落ち着いてしっかりと走れ」
永野先生がそう言った瞬間、紗耶が寂しそうと言うか悔しそうな顔をしたのを、私は見逃さなかった。
「あの、待ってください綾子先生。うち大丈夫ですから。走れますから……。お願いです。走らせてください」
梓は体を起こしながら永野先生に訴える。
必死に懇願するが、体を起こすだけで梓はふらふらだった。
「ばかを言うな。お前あきらかに熱を出してるぞ。さすがにそんな状況で、走らせるわけにはいかない」
「大丈夫です。今から病院に行って点滴を打ったら、すぐに元気になりますから。そしたら絶対にいつも通り走れますから。うち、葵姉との約束を果たしたいんです。葵姉が叶えられなかった夢をうちの手で叶えるって……」
梓が泣きながら永野先生に訴える。
梓の手は永野先生の腕をぎゅっと掴んでいた。
そんな梓に、永野先生が何かを言おうとしたその時だった。
「ふざけないでよぉ!!」
紗耶が大声で叫んだ。
あまりのことに私達全員が紗耶の方を向く。
泣いていた梓でさえ、泣くのを辞めてしまったほどだ。
「あんた駅伝をなめてるんだよぉ! そんな個人のわがままが通用すると本気で思ってるわけ! だったらわたしだって走りたいよぉ。腰の痛みはまだあるけど、走れるなら走りたいよ! でもそれが無理なことは、わたし自身が一番分かってる。わたしがいないのが、今のチームにとって一番ベストだってことくらい分かっているんだよぉ。だいたい、そんな状態で走って大ブレーキでも起こしたらどうするのぉ? 一生それを後悔しながら生きて行く気? そもそもあおちゃん先輩はそれを褒めてくれるの?」
紗耶はぐっと唇を噛みしめる。
目からは涙がこぼれていたが、梓を睨む目つきはそのままだった。
ふと麻子を見ると、ものすごく悲しそうな眼をしていた。
理由は分かる気がする。
私自身、紗耶の言葉にショックを受けた。
自分がいないことが、チームにとってのベストだと紗耶が思っていたのは予想外だった。
故障してからもマネージャーとして頑張り、常に笑顔を見せてくれていた紗耶。
私が少しずつタイムを戻して行くのを、まるで自分のことのように喜んでいた紗耶。
まさか、心の中ではそんなことを考えていたなんて……。
「ごめんなさい……」
梓はつぶやくと同時に、永野先生の腕を握っていた手を力なく離した。
「朋恵先輩……「ごめんなさい。4区……、お願いします」
その一言を絞り出すを口から出すと、梓は俯いてしまった。
静寂が一瞬にして部屋を支配する。
その静寂は重く、そこにいるだけで悪い流れに巻き込まれてしまいそうな気がした。
ただ、誰もが空気を変える手段を持っていなかった。
いや、私自身はそう感じていた。
でも1人だけ、その流れを断ち切れる人物がいたのだ。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻