風のごとく駆け抜けて
「もしもし舞衣子? 久々。ねぇ、あんた今どこにいるの? いや、それは知ってるって。私もそのロードレースに来てるんだから」
プログラムで見かけたからと、日本でもトップクラスのランナーに電話を掛ける永野先生。よくよく考えるとこれは凄いことだ。
「違うわよ。教え子を連れて来たの。そう、その桂水高校の生徒」
きっと私達のことを説明してるのだろう。
「はぁ? なにそれ! いらないわよあんたのサインなんか! あんたはアイドルか! どうせ、もみじ化学・水上舞衣子って書くだけでしょ? えぇ? 生徒? ちょっと待ってよ……」
永野先生が携帯を耳から離し、私達の方を向く。
「なんかさぁ、レースが終わった後で舞衣子のサイン会があるんだと。で、舞衣子が特別に時間を取ってお前らにサインを書いてあげるって言ってるが……。そんなの欲しいか?」
「いりますぅ」
「欲しいかな」
「ぜひ」
「お願いします」
「絶対いりますし」
「ほ……欲しいです」
「もちろんです」
私達全員が聞かれると同時に次々と回答する。
永野先生は口をぼかんと開け、身動きが止まってしまう。
「あ、もしもし。お待たせいたしました。舞衣子さんですか。あの、生意気言ってすいませんでした。生徒全員が欲しがっておりますので、ぜひお願いいたします。はい、分かりました。近くのレストラン? そこに行けば良いんですね。了解しました」
電話を切ると永野先生は不機嫌そうだった。
「なんなの? 舞衣子のくせに。舞衣子のサインがこれだけ人気があるんだったら、私のサインなんてプレミヤがつくぞ」
「はいはい。昔の話はしないの。あなたは今、桂水高校駅伝部の顧問でしょ? 大丈夫よ。今年都大路に出場して優勝でもしようものなら、綾子のサインも大人気よ」
由香里さんの発言に永野先生は一瞬で機嫌を直す。
さすが由香里さん。永野先生の扱い方をよく分かっている。
その後、会場内にある芝生の公園に、部室から持って来たブルーシートを広げ荷物を置く。
少しだけゆっくりした後、各自でアップへと出かける。
スタート時間はあっと言う間にやって来た。
スタートラインにみんなで向かい、あまりの凄さに唖然としてしまう。
約400人が一斉にスタートすると頭では分かっていても、実際に見るとここまで人が多いのかと思ってしまう。
「これは、一番先頭からスタートした方がよさそうね。いいですよねえ、綾子先生?」
葵先輩の提案に永野先生は頷く。
ただ、晴美と由香里さん、永野先生自身は少し後ろからスタートすると言う。
「私達はゆっくり走るから、先頭にいると周りの人に迷惑だしな」
先頭でスタートすると葵先輩が言った時に晴美は「え?」と言う顔をしていたが、永野先生の言葉を聞いて笑顔を取り戻していた。
「てか、永野先生。妹さんは1人で3キロに出るみたいですけど、大丈夫なんですか?」
「いや、湯川。恵那は年に何度も市民レースに出場しているから、これくらいお手の物だぞ。私は恵那よりも本気でお前の方が心配なんだがな。スタートで扱けないように気を付けてくれよ。湯川は前例があるし。駅伝前にケガをされても困るからな」
恵那ちゃんを心配して質問した麻子が逆に心配されてしまう。
麻子も気まずそうに「はい。気を付けます」と大人しく返事をする。
スタートで最前列に並んだ私達は、周りの注目の的だった。
まぁ、この5キロは男女混合で行われ、最前列は引き締まった脚をした、いかにも速そうな男性が大多数を占めていたのも理由の一つだろう。
女性が……、それも高校生が最前列に来るのは市民レースではかなり珍しいことだと、隣の男性が教えてくれた。
周りの人も市民ランナーと言うこともあり、私達が県駅伝で2位だったことを知っていた。「今年は優勝出来るといいね」といろんな人が言ってくれる。
中には陸マガを読んでおり、私が3000m障害で高校新記録を出したことを知っている人までいた。
まったく知らない人に「おめでとう」とか「すごいね」と言われるのは、嬉しくもあり少し恥ずかしくて痒い気持ちにもなってしまう。
でもおかげで、スタート前の緊張はほとんど無かった。
こう言うところは、市民レースの良いことろだなと素直に思う。
高体連のレースだと、スターラインに並んだ状態でおしゃべりと言うのはなかなか無い。
と言うより、トラックレースなどは、スタートラインに早くから並んで待つと言うこと自体が無いのだ。
「5キロの部へ参加のみなさま。スタート3分前です」
係員の放送が聞こえて来る。
と、私達の前に大会運営者らしき人とハーフパンツにTシャツ姿の女性ランナーが現れる。
ゲストランナーの水上舞衣子さんだ。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻