風のごとく駆け抜けて
係員がすぐに駆け寄って来てくれ、支えらえながらトラックの外に出ようとする。
とにかくすぐにでも座り込みたかったのと、給水を取りたくてたまらなかった。
だから別の係員が「ちょっと君、この場に待機しておいて。動かないで」と指示を出した時にイラッとしてしまい、思わずその係員を睨みつけてしまう。
「いえ、水が飲みたいんですが」
私が不機嫌そうな声を出すと、すぐ横にいた同い年くらいの補助員の子が「これ、新品ですからどうぞ」とスポーツ飲料を渡してくれた。
それを見て、一瞬だけ沸騰してた私の心も平温へ向かって一気に冷却を始める。
同時にタイムが気になった。
自分の時計を見ると、止めるのを忘れていたらしく、10分45秒46秒47秒と忙しそうに動いていた。
電動計時を見ても静かに同じタイムを刻んでいるだけだった。
他の5人はゴールした者から順次、係員の誘導に従いトラックの外に出てスパイクを脱ぎ、給水を始める。
なぜ私だけ7レーン辺りとは言え、トラックの中に残されているのだろうか。
さっき私に残るように指示を出した係員の人に聞いてみようとした時だった。
「みなさま。オーロラビジョンをご覧ください。ただいま1着でゴールいたしました、澤野さんの正式記録が出ました。記録9分59秒88。これは女子3000m障害、日本歴代4位並びに今季ランキング2位。そして、高校新記録であります」
スタンド中から一斉に歓声があがった。
って、高校新? 私が? いや、何かの間違いだろう。
「なお、今までの高校記録が10分21秒でしたので、一気に22秒近い大幅更新と言うことになります。また、澤野さんのこの記録が高校生初の9分台と言うことにもなります。スタンドのみなさま、高校新記録を樹立した澤野さんにどうぞ大きな拍手を」
アナウンスと共に拍手が起こり、オーロラビジョンに、
『澤野聖香さん 桂水高校 高校新記録おめでとう』
の文字が出る。
ここまでされて、初めて自分が本当に高校新記録を出したことを実感し始める。
「ほら、せっかくだから、明彩大の人達の所まで言って、あいさつをして来なさい。まだ次の競技まで10分ほど時間がある。君と明彩大の関係は分からないが、レース中あれだけ応援してくれたんだから」
さっき、私に待機するようにと言っていた係員の人が、笑顔で明彩大の人達がいるスタンドを指差す。
私は返事をし、ゆっくりとホームストレートを逆走する。
それと同時に、さっき係員にイラついたのが恥ずかしく思えて来た。
「澤野、おめでとう!!」
木本さんがスタンドから大声を出す。
私が笑顔で両手を振ると、みんなメガホンで拍手をしてくれた。
そしてその後が大騒ぎだった。
またゴールに戻ると、報道陣の方々が私を待っていた。
「すいません、澤野さん。写真とインタビューをお願いします」
「あ、写真は電動計時の前でよろしいですか?」
言われて電動計時を見ると、「9分59秒88」で止まっていた。
「はい、撮ります。笑顔でお願いします」
「来月号で特集を組みたいので、インタビューお願いします」
全部で10人くらいいただろうか。
色んな人に次から次へと質問をされ目が回りそうだった。
そもそも、なぜこんな記録会に取材がと思ったが、この次に行われる女子10000mには有名な実業団選手も多数出場しており、それを目当てで取材も来ていたらしい。
他にも補助員の子にサインをねだられたり、写真を一緒に撮ったりで、明彩大のところに戻った時には10000mもすっかり終わっていた。
「あ、ちょうど帰って来た。ちょっと待ってね」
牧村さんが誰かと電話をしながら私に近付いて来る。
「はい、永野よ」
それだけ言って、私に携帯を渡してくれる。
「もしもし……」
「お疲れ。澤野、お前すごいな。てか牧村さんにはやられたぞ。なんでもクロスカントリーの練習を見ていて、3000m障害に向いているって思ったんだってさ。私に見る目がないって言われたけど、そもそも山口県だと3000m障害を走る機会が無いんだし……。でも、初めての3000m障害で高校新って恐れ入ったぞ。私は、お前くらい走力があれば、大学からの推薦は十分あるぞってことを感じてくれれば良かったんだが」
「はは。そうですね。なんかみなさんに、明彩大に来いって言われました。学費もタダで入れるからって。てか高校新は自分が一番ビックリしてますよ。まぁ、競技人口が少ないのもあるかもしれませんが。第一、紘子や城華大付属の雨宮桂が3000m障害を走ったら私よりももっとすごい記録で走ってますよ」
私の一言に、永野先生が「いやいや」と否定をする。
「競技人口が少なかろうと、高校新は高校新だ。胸張っていいぞ。それに少なくとも若宮に3000m障害をやらすつもりは無いしな。ところで澤野、明日どうするんだ?」
最初、永野先生が何を言っているのか分からなかった。
「いや、明日から新学期だぞ」
その一言に血の気が引く。
思わず振り返って、後ろにいる牧村さんを見る。
牧村さんは何が起きているのか理解していなかった。
私は、携帯を牧村さんに渡す。
すっかり、学校のことを忘れていた。
そう言えば、3000m障害を走ってここから徒歩10分の駅まで行き、電車に乗れば、途中に乗り換えがあるものの、桂水に停まる最終の新幹線で帰れるはずだった。
しかし、高校新を出したせいで、予定を1時間も押していた。も
ちろん、最終には間に合わない。
どうも、牧村さんも永野先生との電話で状況を把握したらしい。
「わたしが澤野を今から責任持って送るから。永野、あんた今1人暮らしなんでしょ。家に泊めて」
それだけ言って、牧村さんは電話を切る。
「と言うわけで、岡本、木本。後のことは任すわ。全員を引率して寮まで安全に帰って。それと明日の練習は、朝練無しで午後5時半からのみ。それまでには帰って来るから」
近くにいた岡本さんと木本さんも状況を把握していたらしく、「はい分かりました」と頷く。
「よし、澤野。着替えも終わってるわね。じゃぁ、桂水市まで行くわよ」
どうやってですか? と聞こうかと思ったが、どう考えても牧村さんの運転する車しか考えられなかった。
みんなに、合宿中のお礼と、別れのあいさつをする。
これが今生の別れにならないことを祈りたい。
作品名:風のごとく駆け抜けて 作家名:毛利 耶麻