*レイニードロップ*
*
「スイちゃんは、寝ちゃったみたいだね。仕方ない。明日また、起きたらもう少し話を聞こうか。とりあえず、隙を見て連れ出してみれば何か分かるかもしれないし」
「……すみません」
「何を、謝ってるんだい、乃木崎くん。何か謝るようなことが、あったのかい?」
「だって、本当はそういうことは、僕が聞かなきゃいけなかったことじゃないですか。結局、部長がいなかったら今頃スイをどうしていたか、分からないですよ」
いかにもおかしそうに、部長が苦笑する。
「ヤケに素直だね。勝手に帰っちゃった乃木崎くんと、本当に同じ乃木崎くん?」
「それは……それも、すみません」
部長はなにか考えるように一度口をつぐむと、不意に話題を変えてきた。
「文化祭の展示、写真を選ぶのは大変?」
「……大変ですよ。部長は、自分のことを分かってないんです。僕の写真なんか、部長の隣に並べる程のものじゃないことくらい、分かってくださいよ」
「……あのね、乃木崎くん。僕、今まで黙っていたんだけれどね」
大事なことを告白するように、部長はわずかに溜めを作る。
「僕ね、好きだよ。君の写真。特に君が初めて撮った写真は、大好きだったなぁ。あれは、とても素敵だったよ」
思わずドキリと胸が鳴った。直接に僕のことを好きだと言われるより、嬉しいことだった。あの部長が僕のことを認めてくれた――認めてくれていたのだ。
驚きで高鳴る胸が、止まらない。
けれど、僕の最初の写真って、一体何だったっけ?
「もしかして、初めて撮った写真を忘れたのかい? この写真を、覚えてないかな」
部長は、どこから取り出したのか、一枚の写真を手にして僕に見せる。
「……あ」
うっすらと、記憶が蘇る。いや、はっきりと思い出した。
そこに写っているのは、曖昧な笑みを浮かべた、部長。今よりも少し髪が短い。背景は、この部室。
「そうだよ。この写真は、君が部活紹介で写真部を尋ねてきた時の写真さ」
ああ、そうだ。僕はあの時、部長に借りたカメラで部長を撮ったのだ。
だけどあの写真を、僕は印刷しただろうか?
「君が帰ってから、君が撮った写真を一応確認してみて、僕は真っ赤になっちゃってさ。知ってるかい、写真ってのは撮った人の気持ちが滲み出るものなんだよ。正直、あの時ほど一人写真部でよかったと思った事はなかったね。誰かがいたらきっとからかわれただろうから」
呻く。部長の顔が見れない。出来ることならこのまま寝袋の中へ頭まで潜り込みたいところだったけれど、そのスペースはない。
僕は、部活紹介で壇上に立った部長を見て、一目惚れしていたのだ。テレビで知っていた彼女よりも、もっとずっと綺麗な部長を見て、恋に落ちてしまった。どうにかして部長に近付きたくて、それで部活見学に行ったのだった。
すっかり忘れていたけれど、それが最初だったはずなのだ。
「まぁ、でも、乃木崎くんはもっといい写真を撮ったみたいだね?」
からかうような部長の口ぶりに、渋々顔を上げる。
ニヤニヤと口元だけは笑った部長の手元には、気付けばもう一枚の写真があった。先の写真に重ねて持っていたのだろうか。
その写真も、やっぱり見覚えがないものだった――いや、違う、覚えはある。それもほんの何時間か前の話だ。だけど、覚えはあるけれど、やっぱりこれも、僕は印刷した覚えがない。
「な、な、なんで、それ!」
「大事なカメラを、部室とはいえ置きっ放しにしちゃいけないよ、乃木崎くん。君のカメラへの愛はその程度かい?」
慌てて写真をもぎ取ろうとする僕の手を、部長はひらひらと避ける。
その写真に写っていたのは、雨降りの中で跳んだ、スイの姿だった。満面の笑みを浮かべて、宙に浮かんでいるかのように見える一瞬を切り取った一枚。すっかり忘れていて、ちゃんと写真として見たのは初めてだけど、僕が撮ったのは間違いない。
さっきスイをトイレに連れて行った時、部長は部室に一人残っていた。そしてその時、僕は迂闊にもスイを撮ったデジカメを、部室に置き忘れていた。デジカメはその場ですぐに写真を見ることが出来るし、印刷もすぐに出来てしまう。部長が一人でいた時間はそう長くないはずだが、ほんの一分もあれば、十分なのだ。
「これ、まさかとは思うけれど、スイちゃんに黙って撮ってたり、しないよね?」
「……ま、まさかぁ」
答えに詰まる。明らかに挙動不審だった。これじゃあ言い訳にもなっちゃいない。
「……芸術のためには多少の犯罪も仕方ないという持論だけれどさ、さすがに、盗撮癖はいけないと、僕は思うなぁ」
「その、言おうと思ってたんですよ。タイミング、逃してただけで」
「ふぅん?」
「ほ、本当ですよ」
納得してくれたやら、していないやら。誤魔化しきれたとは思えないけれど、部長はとりあえずそれ以上の追求はせず、スイの写真を蛍光灯にかざし見る。
「ま。いい写真じゃない。乃木崎くんの気持ちが、伝わってくる。嫌々じゃなくって、本気で撮りたいって思ったんだろうね」
心当たりに、僕は顔を逸らす。あの時の昂ぶりを、僕は忘れていない。ほんの一秒前のことかのように、はっきりと思い出せる。美しいと、思ったんだ。雨の中で踊るスイを羨ましく思って、美しく思って、宙に飛んだ姿を、どうしても残したいと思ったんだ。
「ねぇ、乃木崎くん。こんなことを聞くのは格好悪いって、自覚しているんだけれど」
「……なんですか?」
「乃木崎くんは、僕のことを好きかい?」
部長の視線が、真っ直ぐと僕を見つめる。からかっているわけじゃない真剣な瞳。
僕も正直に答えなきゃ、いけない。
「好きですよ。そうじゃなかったら、こんなにずっと写真部にいませんよ」
何度となく、部長の才能と僕の凡才さを比べて卑屈になったこともあった。逃げ出したこともあった。恨めしいと思ったこともあった。それでも僕はあの日からずっと写真部に居続けた。だって、そこには部長がいた。
だけど――
「……じゃあ、乃木崎くん」
今一度、部長は僕に問いかける。
「僕とスイちゃん、どっちが好き?」
「……答えられません」
「どうして?」
「答えたら、きっと部長は傷付くから」
「……それだけで、十分に、傷付くよ。君は一体僕をなんだと思ってるんだい」
ハハハと笑った部長は、笑ってなんていなかった。
「……すみません」
「いいよ、ロリコン」
「ロリコン言わないでくださいよ……別に、手出してるわけじゃないんですし」
「同じよーなもんじゃないか。まぁ、君のは多分、少し違うんだろうけれどさ」
あーあ、と軽口を叩いて気が晴れたのか、部長は呆れたように声を上げる。
「もう、寝ようか。おやすみ、乃木崎くん」
そう言って、部長は寝袋に潜り込む。僕からは部長の顔が見えなくなる。
「おやすみなさい、部長」
作品名:*レイニードロップ* 作家名:古寺 真