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神坂 理樹人
神坂 理樹人
novelistID. 34601
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主人公症候群~ヒロイックシンドローム~

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 力が解放される直前、強い力が正義の襟首を引っ張った。引っこ抜かれるように意思とは逆の方向に体が運ばれる。敵の呆然とした表情の真意を悟った正義はチラリと後ろを見る。見慣れた灰色の味気ないコンクリートの塀に、鮮やかな赤で複雑そうな図面が描かれていた。
 その前に立って手招きしているのはあの少女。正義を引っ張っているのは、一匹の大きな犬だった。正義の手が再び少女に握られる。生暖かい感触で、図面を描いている赤が、少女の血だと気付いた。その手に引かれ、正義と少女は塀に描かれた図面へと吸い込まれていく。あるはずのない空間へと。
「待て!」
 剣を構えた男は咄嗟に叫び、急いで駆け寄ったが、今はもう元通りの無機質なコンクリートがあるのみだった。
「まさかあの短時間にあんな複雑な魔方陣を描いたのか? 我々はこの時空間に到達するための魔方陣を描くのに五日もかけたというのに」
 呆然とざらつく塀を撫でる。
「やはり一刻も早く捕獲する必要がありそうだ。悪戯で世界を滅ぼす魔女、紅蓮の厄災」
 男は剣を鞘に戻し、同僚を助け起こす。一人ではない、武器の類も持たずに戦う奇妙な男がついている。早くあの方にこのことを伝えなければ。

「痛ってえ」
 引きずりおろされるように正義は岩肌に投げつけられた。苦痛で歪んだ視界の端にしたり顔の犬が映る。ふん、と鳴らした鼻息が妙に癪に障る。
 見たことのない景色だった。色んな地方や外国には大会で行ったことがある正義だったが、こんな光景は初めてだった。殺風景な山の中腹のようだが、灰色の岩山がまだ背後にそびえ立ち、眼下には鬱蒼とした森林地帯が続いている。道らしい道は見えず、ただただ緑色が地面を埋め尽くす光景が広がるばかりだ。唯一普段と変わらない夕日が、地平線の奥に沈もうとしていて、その光に隠れるように城のようなものが見えた気がした。
「ごめん、なんか巻き込んじゃったみたいね」
 座り込んだ正義よりもほんの少し高い位置から声がする。夕焼けを浴びて輝く少女がいた。
「怪我はなさそうね? 動けるなら、どこか身を潜められそうなところを探しましょう。見つかったら大変だから」
「あ、あぁ」
 正義は不思議な感覚に襲われていた。目の前の光景が異質だったからだけではない。目の前の少女は、本当についさっき自分に助けを求めてきた少女なのだろうか、という疑問が湧いたからだ。
 あの時は目の前の戦いに集中していて気づかなかったが、今思えばおかしいことは多い。夕方、特別なことなど何もない住宅街で襲われていた少女。よくよく見れば年は十歳くらいだろうか、髪は白髪で、彫りの深い造形の顔は日本人ではないと人目にわかる。追ってきたのは、奇妙な衣装の男。しかもこのご時世に剣を携えているとなれば、あまりにも不可解だった。
「大丈夫? ぼうっとしてるけど」
「大丈夫だ」
 大人びた口調。コンクリートに書かれたおかしな紋様。自分の指を噛み切る勇気。
 しかし、助けを求めて来た時のあの震える手は、間違いなく本物だった。
 二人と一匹は並んで岩山の道なき道を下る。登山客なんてかわいいものはいない。それどころか誰の姿も見なかった。
 夕日は地平線に消える前に厚い雲がその姿を隠し、辺りは一足早く、夜の色に変わっていた。
「まずいな、一雨来そうな雰囲気になってきた」
「そうね、どこか雨宿りできそうな場所は……あっ!」
 ずいぶんと下ってきた岩山の一角に横穴が開いていた。少し狭いが、二人入って雨を凌ぐには十分な大きさだ。
「ここで休みましょう。天候が落ち着いてから行動すればいいわ」
 正義もそれに同意すると、二人は腰をかがめ、中へと進んでいく。二人は腰を下ろして、その間に大きな毛皮が横たわった。まるで主人を守るにふさわしいか、品定めしているかのようだった。
 ぽつりと一滴の雫が、灰色の岩肌を黒く染めると、それが合図だったかのように一斉に雨が降り注ぎ始めた。間一髪だった。何も持たないままこの雨の中を歩くのはごめんだ、と正義は胸をなでおろす。
 隣に座っていた少女が独り言のようにつぶやいた。
「まさかこんなことになるなんて。軍がここまで本気だなんて思わなかったから」
 藍色のリボンが、揺れる。彼女の言っていることはよくわからない。ただ一つだけ決まっていることはがあった。
「まだ、助けが必要か?」
「私を守ってくれるの?」
「ヒーローの条件は、誰であっても見捨てないことだ」
 フフッと少女が笑う。
「変な人。でもだからこそ私にはちょうどいいのかもしれない。私はカンパーニュよ。あなたは?」
「正義、観型正義だ」
「まさ、よし? 珍しい発音ね?」
「なら、ジャスティス、ジャスでもいい」
 もごもごと口を動かすカンパーニュを見て、正義も笑った。
「わかったわ、ジャス。私の、英雄になってくれる?」
 差し出された少女の手はもう震えてはいなかった。正義は何も言わず、手を重ねる。
 カンパーニュは寄り添うように正義に身を預け、ゆっくりと目を閉じた。
「嬉しい。やっと巡り会えた、私の王子様」
 正義の胸が高鳴った。腹の奥底から熱が湧きあがって、指の先、足の先まで流れていくようだった。
 彼女が何者かなんて、些細なことじゃないか。俺は今、ヒーローになれる。彼女を守る勇者になれる。それで十分だ。空いている左手に強く力を込めた。
 ただの憧れだった、ただの妄想だったヒーローに、彼女のヒーローに俺はなれる、いやなるんだ。
 オォ、と寄り添っている大型犬が小さく鳴いた。
「セーグルも認めてくれてるのね、ジャスのこと」
 セーグルと呼ばれた犬が、フン、と鼻を鳴らす。その姿はプライドの高い男が相手を認めた姿にどこか似ていた。

 いつの間にか眠っていたようだ。隣に目をやると、肩にもたれかかりながら小さく寝息を立てているカンパーニュの姿があった。二人の足元に覆いかぶさるように眠っているセーグルのおかげか、それともこの小さな横穴のおかげか、それほど寒いとは感じなかった。正義は肩を貸したまま軽く目をこする。小さく切り取られた空は相変わらず厚い雲で覆われてはいるが、幸い雨は止んだようだった。
 互いに握った手が温かい。夢現のような昨日を思い出しながら、寝ぼけた頭を動かしてみる。
「やっぱり現実か」
 自分の妄想癖も達人の域に達したかという疑念もあったが、そういうわけでもないらしい。知らない少女に誘われ、未知の世界に連れてこられた。謎の追っ手を一度はかわしているが、次はいつ出てくるかわからない。
 正義の気分は高揚していた。恐怖がないわけではない。ただ今までが平和過ぎただけなのだ。
「あれ、ここどこだっけ?」
 眠たげな声がふんわりと流れ出る。カンパーニュは虚ろな目で辺りを見回した後、正義を見つけた。
「おはよう、ジャス」
「あぁ、おはよう。それじゃあ、とりあえずここを出るか」
 握られた手は離される気配がない。正義は照れ臭そうに頭を掻いた。横穴の入口の方では、いつの間に起き上がったのか、セーグルが早く来いと言わんばかりに待っている。二人は手をつないだまま、中腰で横穴の外へと出た。