主人公症候群~ヒロイックシンドローム~
一つ目の願いは叶った。次はこの不幸から自分を助けてくれる王子様を待つばかりだ。本棚に並べられた絵本たちには、幸せを手に入れた女の子たちが並んでいるが、カンパーニュの元には王子様どころか人すら訪れることはない。
世は戦乱に荒れていて、この国で恋だとか、幸福だとかそんなものを惚けながら語っているのはもしかしたら自分だけなのかもしれないとすら思えた。
戦争はあまりにも彼女にとって邪魔な存在だった。ただでさえ短い命を誰かのために散らすなど、考えたくもない。そんなことをしている暇があるのなら早く私を迎えに来ればいいとすら思う。この手には圧倒的な力がある。運命の相手が望むなら千の兵士も薙ぎ払ってやってもいいと思っている。
そうは言いながら、カンパーニュは勇んで戦場に出ることはなかった。ヒロインを夢見る彼女にとって待つことこそが本分であり、自分が誰かを救うヒーローになることは躊躇われた。
戦乱は幾年も続いたが、一進一退でどちらも勝機を見いだせないまま小競り合いに落ち着きそうだった。それ故に軍備の枯渇がおこらず、長引くことは誰の目にも明らかだった。風の噂では国王が長年の心労ゆえに病に伏して、あまり長くないとも言われていた。
大きな力をを手に入れたカンパーニュにはあまりにも滑稽な話だ。一国の王を名乗る者が、何も出来ずにただ心を痛めているだけとは。力さえあればすぐにそれが片付いてしまうのに。求めることも探すこともしないなんて。
ふいにカンパーニュは腰を上げる。床に伏せていたセーグルが主の動向に気付いたように起き上がった。
「ちょっとだけ、遊びに行きましょう」
それは本当に散歩にでも行くような落ち着いた口調。ふわりと笑った顔にセーグルも頷いた。ただし、行先は呼び込みの声が響く市場でもなければ、花咲く草原でもない。怒号が飛び交い、血の華が咲き乱れる戦場だ。
誰にも見つからないように高高度に一瞬にして飛び立ち、そこに地面があるように青い空を歩く。あの頃持ち歩いていた羊皮紙もインクも今は必要ない。どうせ朽ちぬ体を持ち、いくらでも治癒できる技術もある。カンパーニュは右手の親指の腹を少し噛み切って、赤い自前のインクを指にまとわらせた。生ぬるい温かさを感じる。空の中に魔方陣を描く。複雑怪奇なそれは、カンパーニュ以外が見てもせいぜい趣味の悪い前衛美術にしか見えないだろう。魔法を扱えない人間にとっては芸術のような価値もない。
しかし、それを知る者にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
「爆ぜよ天空、紅蓮を纏いて全てを無に帰せ」
今や誰もが知ることのない枕詞。魔女すらも忘れてしまった詠唱の一節を滞ることなく読み上げる。あの日手に入れた力の一端をここに具現させる。
右手にありったけの魔力を込め、ぶっきらぼうに投げ落とした。
充満していた怒号が、驚愕と悲鳴の色に変わる。
敵も味方もなく、迫りくる紅蓮から少しでも離れようと無様に逃げ回る姿が見てとれた。
一人、ブランジェリー王国軍の男と目が合った。
背の低い初老の男だ。王子様とは言い難い。ただ一人だけこの状況にあって平静を保ったままこちらを見ていた。紅い光と粉塵がお互いの姿を隠すまで、二人は見つめ合っていた。先に目を逸らしたのはきっとカンパーニュの方だろう。自分の思いつきを後悔し始めたから。
平野だったその場所にぽっかりと穴が開き、緑は抉れ、傷つき倒れた兵の体がそこかしこに散らばっている。一見しても被害は甚大だった。
カンパーニュは見かけた先から兵士たちを癒しながら惨劇の最中を呆然として歩いていた。自分が手に入れた力の一端を見たのは初めてだ。存在が嘘ではないとはわかっていたが、この小さな体から出る魔力があれほど大きな炎の塊になるのを想像していたわけではなかった。
ようやく彼女は理解した。何故禁術と言われていたのか、何故封印していたのかを。
どれほど強い魔力を持とうとも、どれだけ強大な魔法を使えようともカンパーニュはただの無垢な少女でしかなかった。十ばかりの少女が手伝いの途中に洗った皿を落としてしまうように、彼女は大地を割ってしまったに過ぎないのだ。
そしてやはり皿を割ってしまった少女がそうするように、カンパーニュは誰にも咎められないよう急いでそこから逃げ出した。
カンパーニュは恐怖した。自分の手に入れた力に、これからあるかもしれない殺人者としての追及に。
彼女はますます不幸だった。望むべく不幸になったはずなのに彼女の心は当然に晴れることはない。物語のヒロインは大抵か弱い女の子で、しかしその純粋さと美しさゆえに誰かの手助けを得ることが出来るのだ。私はどうだろうか? 大地を抉り人を灰燼に帰す力を持ち、それを振るってついに自分の手を汚してしまった。いったい誰がこんな私を見初めることがあろうか。カンパーニュの震える手をセーグルが優しく頬ずりする。
もうこの力を使う気にはなれなかった。
今思えばあの療養所の老婆は安心していたのかもしれない。教会に管理されることによって、人とは違う力を持ちながら人として生きさせてもらえることに。ともすれば勘違いや暴走で起きてしまうかもしれない望まない破壊を、誰かに管理してもらえるならそれは幸福と呼べるかもしれなかった。
カンパーニュはもうこの森から出る意思はなかった。不死の肉体を持つならばせめて誰にも知られることなく、世を儚んで見続けることくらいは許してもらいたい。
そして、今でも許されるのなら。この悲しい運命から助け出してくれる王子様を待ちたかった。
少女が人に会ったのはそれから八年後のことだった。時折城下に行って子供のおつかいに振りをして買い物はしていたが、まともに人に自分を認識されたのはあの日こちらを凛として見つめていた兵士以来だった。
ましてやカンパーニュという名前を呼ばれたのは、自分の家に永遠の別れを告げた日に母に呼ばれて以来だった。
「それは誰のことですか?」
カンパーニュはとぼけるように目の前の女性に問いかけた。従者こそ数人しか連れていないが、着ているものはカンパーニュと対照的な高級な織物。胸を彩る宝石は飴玉のように小さくしているが、純粋で光を透過しているように澄んでいる。カンパーニュはこの女性を知っていた。四年前、心労でそのまま亡くなった先王の後を継いで王位に就いた若き女王。混乱するだろうと思われた国をその手腕で一手に纏めた天才。
「お前のことじゃ、ごまかしは効かんぞ」
どこで私の名前を知ったのか、そもそも何故私が禁術を持つ魔女だとわかったのか。
「それで、女王様が何の用?」
嘆息一つ、カンパーニュは諦めたように聞いた。聞く必要もなかった。思い当たる節はいくらでもある。
「紅蓮の厄災。その言葉を知っているだろう。それはお前のことか?」
「そうだ、と言ったらどうするの?」
幸いセーグルの存在は見つかっていなかった。こちらを窺っているのはわかっているし、場合によっては追っ手を振り払ってもらいながら逃げればいい。カンパーニュは気付かれないように足に力を込める。
「教会に資料があってな」
カンパーニュの警戒心を察したように、パネトーネはゆっくりと話し始める。
作品名:主人公症候群~ヒロイックシンドローム~ 作家名:神坂 理樹人