主人公症候群~ヒロイックシンドローム~
足が痛くて仕方なかった。今すぐに座り込んでしまいたかった。座り込んだら今度は寝転んでずっと起き上がりたくない。持ってきた水はとうに尽きていて、喉を乾いた息が通り過ぎていくたびに咳きこみそうになる。それなのに何故かカンパーニュは止まれなかった。足元は傾斜がつき始めて山を登っているのだとはわかった。悪かった足場はさらに悪くなり、だんだんと空気も悪くなってくる。そういえばここに着いてから生き物を見た記憶がない。植物がほとんどないとはいえ、通り過ぎる小動物くらいいてもいいものなのに。
何度目かわからない道端の小石につまづいて、カンパーニュは派手に地面に転がった。刺すような痛みとともに膝頭が熱くなる。だが、その痛みはすぐに頭の中から飛び出していってしまった。
「あった」
目の前にはカンパーニュの行先を塞ぐように大岩が鎮座している。このバランスの悪い斜面なのに、まるで一体になったかのように動きそうな気配もない。
『来たか、さぁ、こちらへ』
またどこかから声がする。いや、今度は場所がわかる。この大岩の下から聞こえるのだ。
「でもどうやって退ければいいの」
いったい何人の男が集まったらこれが動くだろうか? 幼い少女にそんな力などあるはずもなかった。カンパーニュはおもむろに立ち上がって、持ってきた道具たちの中から羊皮紙とインクの瓶を取り出す。確かに自分には腕力はない。でも、その代わりに手に入れた力があった。
下級の魔法は詠唱だけで出来る魔女も多いが、独学なうえに経験も少ないカンパーニュには老婆から教わった治癒魔法以外は難しい。きっちりと魔方陣を描いてしまう方が確実だった。インクの瓶に細い指を浸す。黒く冷たい感触がどことなくくすぐったい。
脳に焼き付けた図形を一枚ずつ書いていく。風を起こし、水を降らせ、火をつけ、雷を通してみた。全く歯が立つ雰囲気がない。一部が欠けるくらいあってもいいはずなのに。もしかすると、これが封印のために置かれた魔法的な物体なのかもしれない。
「あとまだ使ってないのは……」
あまり期待できるものではない。それでもカンパーニュは諦めることが出来なかった。
魔方陣は要らない。これだけはカンパーニュは自力で使うことが出来る。
「これ以上大きくなったりしないよね?」
不安になりながら岩に手を当てる。使うのは唯一教えてもらった治癒の魔法。人の怪我を癒す。この下にあるものとは真逆の存在。
光る。手から発せられた温かい光が、岩の表面を走り抜け、やがて星のように眩く光始める。目は眩まなかった。ずっと呼ばれていた存在に会った気がする。その時、カンパーニュの足元が割れ、彼女はそのまま暗闇に飲まれた。
落ちた先でカンパーニュは目を覚ました。体は痛くない。疲れもとれてしまっている。いったいどのくらい眠っていたのかわからない。上を見ると、落ちてきた先の光が見える。それほど高くないはずなのに、途中で何かに遮られるように不自然に途切れていた。カンパーニュは手探りで羊皮紙とインクを見つけ、少しずつ慣れてきた暗闇の中で羊皮紙に魔方陣を描きこむ。光が欲しかった。最後の一筋を描き切ると同時に詠唱するまもなく紙から強い光が生まれた。驚いてペタリと地面に座り込む。
「そっか、これは魔力だ」
光を拒むほどの密度の魔力がこの空間に渦巻いているのだ。封じられた禁術の魔法から漏れ出した魔力がこの空間に充満している。ガスが充満した密室の中に火をつけるように魔方陣が自然に発動したのだ。
闇から一転、光に包まれた部屋の中をカンパーニュは見回す。がらんどうの空間で、何かが置いてあることもない。いったい自分の探している不老の術はどこにあるのだろうか?
『汝、何の術を求める』
部屋中から声がする。キョロキョロと辺りを見てみるが、どこにも人の姿など見えない。
「私は誰よりも先に死ぬことのないように永遠の命が欲しいの」
『よかろう、感じよ。そして知るのだ。我々の力を』
カンパーニュは知識を貪るように吸い込み続けた。無垢な少女は力を得るという快感に勝つことは出来なかった。当初の目的を達したはずなのに、この空間から外に出ることはなかった。
次を、次を。ここにある全ての叡智を私のものに。
一つ魔法を得るたびに部屋が少しずつ明るくなっていることに彼女は気づかなかった。
どれほどの時間が経ったのかわからないほどの没頭の後、とうとう部屋から声は聞こえなくなった。光を生む魔方陣はすっかり風化してもう蛍ほどの明かりも生んでいないが、天井に開いた穴から降り注ぐ光で部屋はきれいに照らされている。カンパーニュは禁術から漏れ出た魔力をすっかり使い切って、ただの空気と化した澄んだ息を吐いた。
彼女は既に魔女だった。この世で唯一の、牙を持った魔女だった。
「帰ろう」
自分の身長の何倍あるかという先にぽっかりと空いた穴に向かって飛び出す。ふわりと浮いた体は重力などないかのように真っ直ぐ正確に出口へと向かう。その勢いのままカンパーニュは故郷へと帰る。あれほどの大冒険が嘘のようだった。そのスピードは馬車など比べものにはならない。風を顔に受けながら、カンパーニュは愛しい母の元へと急いだ。
久しぶりの自分の家は変わっていなかった。少し痛んでいるような気もするが、昔飛び出したそのままだ。家に入ろうとして後ろから声をかけられた。
「カンパーニュ!」
しわがれた声だった。カンパーニュはふいに振り返る。そこには腰の曲がった老婆が立っていた。まるで療養所でよく会っていたあの老婆のようだ。だが面影はある。母なんだと気付いたのは少し時間が経ってからだった。お母さん、と呼ぼうとした声が、その母によって遮られる。
「いえ、ごめんなさい。カンパーニュはもういないのよね。お嬢ちゃんがよく似ているからつい。本当にごめんなさい」
その言葉に反論しようとしたが、とっさに言葉が出てこなかった。
「お母さん! どうしたの?」
カンパーニュが発しようとした言葉を後ろから来た女性が、横取りした。その姿はまさにカンパーニュのよく知る母の姿そのものだった。
「あぁ、ごめんよ。昔に死んでしまったお前のお姉さんにそっくりの子がいてね、つい声をかけてしまったんだよ」
そっか、と母と同じ姿の女性は悲しそうな顔をしていた。
「お嬢ちゃん、元気なのはいいけど、街の外に出ちゃダメよ。何があるかわからないんだからね」
優しそうな表情は昔よく見た母の顔と同じだった。きっと私の妹なんだろう、カンパーニュはそう感じたが、それならなおさら自分がカンパーニュであることなど、言えるはずもなかった。自分の姿はこの家を飛び出した頃から全く変わっていないのだから。
カンパーニュは自分の妹に恭しく頭を下げて、その場を去った。もうこの町にいられるはずもなかった。
誰にも見つからない辺境の森に居を構え、日々を寂しく生き始めて何年経ったかわからない。カンパーニュは彼女の望んだとおり、まさしく不幸だった。彼女に寄り添うのはただ使い魔として自分が生み出したセーグルだけだった。人の形をしているのを見ると、だんだんと物悲しくなってくるので、今は大きな犬の姿をさせている。
作品名:主人公症候群~ヒロイックシンドローム~ 作家名:神坂 理樹人