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机ノ上ノ空ノ日記 1

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「ねえ、ヘンリーさんは私のこと好きかなあ」

紫色したフクロウのぬいぐるみを胸に抱いたまま、彼女は僕に聞いた。
彼女は青いコットンのドレスを纏い、頭には黒いリボンを模した髪留めをつけていた。
腰まである綺麗で艶のある髪は、うつむいた彼女の顔を心持ち翳らせていた。

ヘンリーさんというのは、彼女の持っている紫色のフクロウのことだ。
くちばしと脚が黄色くて、一見ユーモラスなそのぬいぐるみは、僕が初めて彼女と会ったときから、いや僕が彼女と知り合うずっと前から、彼女といつも一緒だったのだ。ほとんど壊れる事も無く十四年以上も彼女と一緒にいるのだという。

「ヘンリーさんの美しさが分かる?彼女のこのくちばしの曲線は、私の唇にぴったりと添うの。綺麗でしょ?分かる?」

彼女は、ほとんど信仰に近い視線をその紫のフクロウに注いでいた。
そして、時間があれば常にその賛美歌のような言葉を僕に聞かせた。

彼女は、僕が初めてヌードを撮る事に成功した女性だった。
僕は初めて女性のヌードを写真に納めた日の夜、彼女と色々な話をした。

写真のこと。
彼女のこれからの事。
宗教のこと。
時間と人間の年齢の事。
そして、ヘンリーさんの事。

彼女は僕の半分の年齢で、しかも年齢にそぐわない鋭い知性とウイットに富んだ好奇心を持っていた。

二月の冷気を追い払うために点けていた電気ヒーターから埃の焼ける匂いが漂って来た。
僕は電気ヒーターのボリュームを、900wsから600wsへと落とした。

「ねえ、やっぱりヘンリーさんは私の事が嫌いなんじゃない?」

僕はまじまじとそのヘンリーさんと、彼女を見比べた。ヘンリーさんは中々に愛らしい目をしていた。そして、穏やかでユーモラスなフォルムをしていた。彼女は美しいと表現したが、確かにそういう表現も有りだとは思った。

「いいや、ヘンリーさんは君の事が大好きだよ」

「どうして分かるの?ヘンリーさんでもないくせに」

彼女は少し厳しい目をして、僕を見た。
その目には僅かに涙粒らしき光が見え隠れしていた。

「だって考えてごらんよ。こんな小さなぬいぐるみが、十四年間壊れもせずに君と一緒に連れ添っているんだよ。普通のぬいぐるみは、五年も持てば丈夫な方だよ。十年持てばそうとう丈夫な方だ。」

彼女はだまって頷いた。そしてそのぬいぐるみの紫色の頭を優しく撫ではじめた。
「きっとヘンリーさんが君の事を嫌いならば、五年ともたずに直ぐに脚がとれたり、くちばしがちぎれたりして壊れているよ…」

僕は下手くそな両手のジェスチャーまで使って彼女に説明した。

なんでそんなに熱心に説明したかというと、そのぬいぐるみの優しい目が、実際のところ僕にそんな印象を与えていたからだ。そして、彼女が泣き出したりしないようにという僕なりの配慮もあった。

僕の試みは成功したように思えたが、しかし彼女はその綺麗で真っ黒な瞳から大粒の涙を溢れさせた。


「ヘンリーさんはきっと私と離れて旅に出たがっているんだよ」

突拍子もない事を突然言ってくる。

僕は即座に否定した。

「そんなことないって。もしそうなら、勝手に旅にでてるよ。よく聞くだろう?お気に入りのぬいぐるみがいつの間にか無くなってしまったっていう話。あれは持ち主のもとを離れたいと願っているぬいぐるみが、神様の力を借りて旅に出ているのさ」

また彼女は僕に疑いとも詰問ともとれる厳しい目を向けた。
その目に怯まず、ぼくは言葉を続けた。

「ヘンリーさんは、今も君の隣に一緒にいるだろう。旅になんて出たくないんだよ。君の思い過ごしさ」

僕は自分の回答に絶対の自信を持って彼女の方を見た。
彼女は、少し表情を緩めたように見えた。

不思議な少女だった。
だいたい、僕のことを長く知っている訳でもないのに僕の事を信用してくれた。

ネット上でいくつかの言葉のやり取りはしていたが、その程度で少女が見ず知らずの男性に体を開くものなのだろうか。

もちろん僕もできる限りの力で、僕の気持ちを誤解が無いように彼女に伝えた。
そして細心の注意を払いながら彼女にその意図を説明し、写真に対する僕の情熱も伝えた。

それでもそんなこととは関係なく、彼女は最初から僕の事を信用してくれていたように思う。
写真や被写体、そしてヌード撮影のことを僕が必死で説明していても、どこか上の空のような目で僕をみていた。そしてどうしてそんな必死に説明しているの?というふうに首を傾げてみせた。
そんな不思議な表情をよくする少女だった。

初めて会ったとき、僕は黒ビールを飲んだが、彼女はウィスキーをダブルで美味しそうに飲ってみせた。サーモンのマリネの入った大振りなサラダを僕が取り分けてあげると、不思議な目でそれを見ていた。彼女は肉料理があまり得意ではないようだった。

僕は友達が少ないが、彼女も友達が少ないと言っていた。
僕たちは美術について共通の言葉と話題を持っていたから、打ち解けるのも早かった。

いつも黒いリボンをつけていた。
いつも、紫色のフクロウを連れていた。
「どうもー」という鈴の音のような言葉が、いつもの彼女の挨拶だった。

その少女は、僕に聡明な黒い子猫を想像させた。
身のこなしはしなやかで、黒を基調にしたドレスを着ていることが多かったからだ。
ちょっとしたわがままを僕に振りかけたり、そうかと思うと急に身を寄せてくるところなんか、本当にいたずらな猫の性質そのものに思えた。いつも付けている黒いリボンの髪留めも、いつの間にか僕の目には猫の耳のように映るようになっていた。
ちなみに僕は三十年以上の人生の中で、一度も猫を飼った事はない。

その黒い子猫は、その後も何度か僕の部屋を訪れて、僕のファインダーの中に収まった。
黒猫は十九歳から二十歳になると、神性が宿るのだと言う。
自分が神になる前に、彼女はその姿を写真に残しておきたかったのだ。

僕はその時既に写真家を名乗っていたから、女性のヌードを撮影することに使命感を覚えていた。
そしてこの少女を、深く深くまるで彫刻を彫るように撮り続けていきたいと本気で思っていた。
自分の世界が一気に拓けた。そう思った。

しかし彼女と私との関係は、長くは続かなかった。
彼女が二十歳を迎え、私がある病で入院生活を余儀なくされた後の6月に、彼女は神性を宿してしまったのだ。

彼女のことを考えると、決まってあのひどく寒い冬の夜を思い出してしまう。
紫のフクロウは、今でも彼女のそばにいて、彼女を優しく見守っているだろうか。

彼女が僕のもとを去っても、僕は絶望を感じたりはしなかった。
しかし、確実に小さな死が日々起こっていることを実感できるようになった。

最後に彼女に会ったとき、僕は彼女に自分の愛用していたカメラを渡した。
これからも僕と一緒に居てくれると勘違いしていたからだ。
その日、僕の部屋を去ってから、彼女はメールを送って来た。

彼女はメールで「写真って楽しいね」と書き込んだ。

その日に彼女に渡したフィルムカメラはチタンのボディーを持った35mmの一眼レフで、50mm、f1.2の明るいレンズが付いていた。
作品名:机ノ上ノ空ノ日記 1 作家名:机零四