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机ノ上ノ空ノ日記 1

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20120704

湯船に浸かりながら、昨日と今日の狭間に思いを馳せる。
湯が滑らかなのは、ちょっとぬるめに沸かしておいた効果だ。僕は夏場、湯温を43度に設定している。そのくらいが、一番気持ちがほぐれるのだ。

暑い日は、シャワーの方がさっぱりしていて良いという意見も理解できるが、心底リラックスしたい時は、湯船に湯を張るようにしている。

今日は仕事で上司から理不尽の塊をいくつも投げつけられて、顔じゅうが理不尽のペースト塗れになっている。シャワーだけでは拭い取れない。湯船に浸からなければいけない日なのだ。

手ぬぐいで、軽く顔の汗を拭いてから、それを頭の上にのせてみる。
両手で暖かな湯をすくったりしながらとりとめの無い事を考える。
時には文庫本なんかを浴室に持ち込んで二章くらい読んでしまったりする。
ようするに、僕は長湯なのだ。

浴室の扉の隙間から、小さく深夜放送の笑い声が聞こえてくる。
この時間帯のテレビは薄っぺらで全く面白味がないが、聞こえるか聞こえないかのくらいの微かなBGMにすると、案外悪くないものだ。

暖かな湯に浸かっていると、自分の足の甲や濡れた人差し指なんかを写真に収めたくなるのは精神疾患か何かの前兆だろうか。それとも人間であれば皆そんな気持ちになるものなのか。
ひとりぼっちの自分に答えを授けてくれる存在は、もちろんいない。

でも、たまにもう一人の自分が答えてくれることもある。もちろん自問自答の類いの範疇で…だけど。
ちょっとした自分との対話ができる空間…それが僕にとっては湯船の中なのかもしれない。

ゆっくりと湯船に浸かる。優しい温もりが体を徐々に侵していくのが分かった。
ぼんやりと浴室を見回してみる。
よくあるベージュ色の僕の浴室は、ユニットバスである。

いつも文庫本を置いておく洋式トイレの天板には、今日は着替えの下着しか置いていない。

ベージュ色の天井には埃っぽい換気扇のダクトが付いており、そこから湯気が冷やされてできた水滴がいくつも付いていた。
水滴はもう少しで落ちてきそうだったが、どういう力が働いているものか、一滴も落ちてこなかった。

視線を天井から再び浴槽の中の足の指に戻す。

そのとき、昔親しかった女性に説明した植物の思考についての話を、僕はなぜか思い出した。

植物を年規模の長さのムービーで定点撮影・記録する。
そしてそれを早回しにして鑑賞すると、植物にも感情のこもった動きや知性らしきものが感じられるようになる…というものだ。

要するに、植物の時間の進み方は人間よりも遅いから、人間は植物の思想している仕組みがリアルタイムでは分からないし、その声もリアルタイムでは聞こえないという理屈だ。
でも、早回しにすると聞こえてくる(気がする)…らしい。

その逆の立ち位置にいる生命が蚊だ。
蚊はその一生を一週間で終えてしまうという。

だから人間よりもよっぽど素早いスパンで思想し、行動しているらしい。
彼らの羽音を録音し、それをスローで再生すると、実は意味のある風の音階がそこに生まれている…のかもしれない。

…あれ?この話、一体いつ誰から教えてもらったんだっけ?

彼女未満から先に近寄ってこなかったその女性は、その話題に感銘を受けることはなく、話は全く膨らまなかった。

彼女はそんな話題よりも、ジャニーズタレントの行っているツアーの方に興味があったのだ。
僕はそのタレントの話題に必死に付いていこうとしたが、結局息切れしてしまい、ハーフマラソンを走りきる長さの半分にも満たない時間で、リタイアしてしまった。
なかなか相性の良い女性とは、巡り会えないものである。

なんで、そんなことを不意に思い出してしまったのか…。
そうだ、昨日と今日の境目について考えようとしていたからだ。

日付の変わり目は、あくまで人間が、便宜上定めたものだ。
どうして時間という鎖を人は発明し、自らをそれに縛り付けたのだろうか。

緑色に光る湯の表面を眼でなぞった。
すると、不意に湿り気のある透明な声で答えが返って来た。

「なんでもかんでも定義して、分かった気にならないと、人間は落ち着かないから」
おそらく薄緑色をしたもう一人の自分は、もっともらしい口調でその言葉を発して来た。

『太陽がどのくらいで同じ位置に再び昇るのか…とか』
『月がどのくらいの周期で満ち欠けを繰り返すのか…とか』
『季節は、どのくらいで次の季節に移り変わるのか…とか』

『言葉と、思いと、どちらが先にあったのか…とか』
『人間は、どこから来て、どこへ帰っていくのか…とか』
『一応の答えらしき物は、それらしく提示されているけど。本当にその正解らしきものは、正解なのかい?』
湯の表面を眼でなぞっている自分が、おそらく透明に似た薄い緑色の自分に向かって再度問いかけた。

『例えば時間の流れだって、本当に未来・今・過去のベクトル上を滑り落ちて僕を貫いているのか。すべて怪しいものじゃないか?』

なんでそんな陳腐なSFめいた事を僕は問うたのだろう。
仕事のストレスが脳細胞に深刻な影響を与えていたからか。
いいや、きっと湯船に浸かってリラックスしていたからだ。

そんな下らない問いに、しかし湯の触媒で発生していると覚しきもう一人の自分は、またも答えを吐き出した。

「全ての未来・今・過去は一枚のタペストリーみたいな…一枚の板みたいな…そんな構造になっているのさ。未来・今・過去は複雑なパターンで織り込まれているから、直線上に規則正しく並んでいる訳ではない。だから、自分の操作次第で時間は超えられる。オセロの駒を白から黒に変えるようにね。」
「ただ強力な自己暗示で皆支配されているから、基本的に未来・今・過去の直線パターンでしか、人はその流れを把握できないが。」

当たり前の事じゃないか…というような自信たっぷりな姿勢で、もう一人の自分は言葉を続けた。

「人間の感覚・体感が全てではないよ。以前教えた植物の時間感覚の時もそう言ったと思うけど」
「例えば、君が顔の周りに眼が360度ついている生き物になったとして、どのようにその眼が景色を映し出すか知っているのかな?そしてその360度の映像がどのように結像して脳に送られ、そして処理されるのか考えた事はあるかい?」

いや、ない。そもそもそんな生き物なんて地球上にはいないんだろう?想像してみたけれど、なんだか頭が痛くなりそうだ。

「つまり、自分のデバイスで宇宙全ての事象が説明できるなんて思わない事さ」

へえ。なんだか自問自答しているような感じではなくなってしまったな。まったく湯船とは不思議な空間だ。

よくミュージシャンなんかが入浴中に曲が降りてくるなんて言っているが、実際そんなモノなんだろうと自分も思う。
リラックスすると、何かが降りて来たりするのだろう。
今の自分も、そんな感覚に近いのかもしれない。

もう一人の自分が答えていたような時間のタベストリーがもし実在するのなら、それをランダムに移動して日記にしたら面白そうだと僕は思った。どんな模様として、時間は織り込まれるのだろうか。ちなみに今のところ僕は、毎日几帳面に日記を付けるような希有な習慣は持ち合わせていない。
作品名:机ノ上ノ空ノ日記 1 作家名:机零四