机ノ上ノ空ノ日記 1
20130621
今日も雨が降っている。
にもかかわらず、今日はミラーレスのデジカメを首から下げて身仕度を整えた。
今日は年に一度の健康診断の日。
仕事を休めるのは助かるが、午前中いっぱいは予定が立てられないので、それ程嬉しいイベントではない。
しかも今年は隔年でやることにしているバリウムの当たり年だ。
普段絶対に降りない駅のひとつである大塚駅で降りて、検査を一通り済ませた。
今年は胃を上手く膨らませ続けられたし、採血の担当者がへたくそで少し痛みが強かった事以外は、概ね良好な進行だった。
…ただ、少し気になったのは、いつも真っ白なはずのバリウムが、どういう訳かちょっとだけ灰色を帯びていたことだ。
バリウムを飲んだあとは、恵比寿の写真美術館に行くことにしている。
あそこのトイレは綺麗だから。
そのついでに、写真集を見る。
ふと、目を上げると、とても綺麗な女性が、アラーキーのべルエポックを手にとって眺めているのに気付いた。黒いワンピースに金色の砂で編まれているようなネックレスを身につけている。
モデル?それとも写真を撮る女性なのだろうか?
そんな所ばかり気にしている自分は、肝心の写真集には全く集中出来なかった。
なるほど自分はこの場所に相応しい来訪者ではなかったのだ。
ホールのソファに座って外を眺めてみる。
相変わらず垂れ込めたスタジオグレーの空が、景色をつまらないものに変えていた。
それに抗う意味も込めて、二~三枚のシャッターを切ってみる。
…。
無駄な抵抗がバックモニターに映し出された。
雨は上がっているようにみえた。
僕が座っているソファの前に設えられた大型モニターは、僕がそこに来るかなり前から、切ない老夫婦の物語を繰り返し繰り返し流していた。どうやらミニシアター向け映画の予告編らしかった。
『楽しい人生だった』
という台詞が何度も何度も流れている…。
自分もそのような台詞を云う機会があるとしたら…と想像してみたが、その行為自体が不毛であると直ぐに気付いてしまった。
そして僕は灰色の空に惑わされて眠くなってしまった。
滲んだ輪郭を引きずりながら、二階のラウンジに移動する。
曇天の空がよく見えるラウンジ。
やや弱々しい音量で、ビートルズがどんよりと流れている。
「日本写真の1968」
という展示年表をぼんやりと眺めながら、僕は紙コップのバナナオレを飲み、湿ったビートルズを聴いた。
この曇天を招いているようなBGMも、何度も何度も繰り返し流れていた。
今日の写真美術館は、きっと灰色の神殿になっているのだろう。
まだ金曜日の13:58だから、人生の大半を走り終った年輩の人たちしかラウンジには居ない。
先の写真集を見ていた女性が特殊だったのだと今更ながらに気づいてしまった。
声を掛けてみるべきだったのかな。
そうすれば、灰色の空はその色を変えたかもしれない。
でも、僕はそういった事ができない性分の男なのだ。
自分の意志とは関係なく、ため息がもれる。きっとため息に色があるとしたら、やっぱり灰色なのではないか。
…このラウンジに居ても、新鮮な気持ちにはなれそうになかった。
どんよりとした空気に耐えられなくなった僕は、展示も見ずに美術館を後にした。
外は、穏やかな雨が降っている。
台風は、どうやら上陸する前に温帯低気圧に変わったようだった。
巨大なゲージが付いたイベントホールのベンチに腰掛ける。
大理石のベンチに腰掛けて頬杖をつきながら、僕はつまらない午後の過ごし方について思いを巡らせることにした。
鮮やかな傘をもった10人くらいの小学生達がやってきたり、雀と鳩がエサをねだるありきたりのパフォーマンスを披露してきたりしたが、僕の気持ちも灰色の空もその性質を変化させることは無かった。
ひょっとすると人生の大半は、こんな灰色の時間なのかもしれなかった。
果たして日本の総人口の何パーセントの人間が『楽しい人生だった』と最期に言えるのだろうか。
そして、その言葉が言えなかった大多数の人間が救済される可能性はあるのだろうか。
僕はおそらくスタジオグレーの表情を浮かべながら、とぼとぼと帰路についた。
作品名:机ノ上ノ空ノ日記 1 作家名:机零四