机ノ上ノ空ノ日記 1
20280401
曖昧な思考。ノイズの奔流がチェッカーフラグみたいに眼下に拡がる。
徐々にモノクロの感覚は、色彩に包まれてゆく。
夜行列車が、田園の中を走る線路を緩やかに渡って行く。
ベートーベンの交響曲第六番が車内の何処かから流れていた。
黒い空にはデネブとアルタイルとベガの三柱が二等辺三角形を作っているのが見える。
稲田の葉には、ゆったりと黄緑色の光を放つ羽虫が浮遊して居た。
古いスウェードのトランクをシートの傍らに置いていた。
今回の旅のために用意していたもの…
折り畳みの笠。
ブローニー用モノクロ120フィルム6本。
便箋と万年筆。
エスペラント語で書かれた短編小説。
籐で編まれた四角い籠。
ランタンみたいな二眼レフ。
ベージュのパーマセル。
何枚かの絆創膏。
幾許かの想像力。
未知への好奇心。
其れらを詰めて、めざす旅路の果て。
単調な日々は車窓に流れる景色のように、それなりのスピードで過ぎ去って征く。
擦り切れたシートにもたれながら短編小説を読んでいたのだけど、最終章に入る手前でお腹が空いている事に気付いてしまった。
籐で編まれた四角い籠に、おむすびが一つだけ入っている。
おむすびにかじりつく。
シンプルで、優しい味がした。
艶やかで白く綺麗な塩むすびは、あっという間になくなった。
ガタガタ揺れる車窓からは、綺麗な星空が鮮明に見えた。
少年の頃は銀河の星粒までよく見えたのだ。
しかし年老いた眼には、もう其の光は真っ直ぐには入って来ない。
何故、私たちは、年老いるのだろう。
「正しい答えが聞きたい訳じゃない。正しい答えなんて、実は要らない。(生きていく事の本質に於いては)正解なんて無い方が前に進める事もある。まして夢の中では…」
昼間のうだるような暑さとはうってかわって、田園の夜は過ごし易い涼風を幾筋も走らせている。
列車の振動すら、心地よく体に響いてきたものだから…。
ハンチングを鼻の頭まで深く被って、私は旅路の意味を今日も深く考えぬまま、知らず知らず眠ってしまった。
「…つまり、これは夢の中なのだ。夢の中で正しい答えを求めようとするなら、夢を夢だと気付いてしまっては駄目だ」
列車は朝焼けを浴びながら、夢の中の私を載せて疾駆する。
しかしその朝焼けと思しき橙色の光は、実は没する前の夕陽であるに違いないのだ。
そして、そのどちらもが正解であり、そのどちらもが間違っているのだ。
「夢の中で、其れが夢だと気付くようになったのは、一体何時からだろう。そして、それはなんとつまらない事なのだろう」
瞼を開ければ、また朝がある。
どうせまたコピー&ペーストの朝が、おびただしいレイヤーの先端としてこの目の前に現れるに違いない。
鮮やかさの失われた透明な日常を、あとどれくらい歩いて行かなければいけないのだろうか。
そのことに気づいていない…という風な顔で。
『せめて夢の中では夢を夢だと気付かせないで…と願った処で、もう手遅れなんだ』
悪夢にうなされることもないが、天使に逢うこともない。
私という古びた列車の走るレールは、もう終着点まで真っ直ぐなのだ。
私は枕元のスマートフォンで、5:13AMという時刻を、焦点の定まらない眼に呑み込ませ、もう一度眠ろうと試みた。
しかし、その試みは成功しなかった。
作品名:机ノ上ノ空ノ日記 1 作家名:机零四