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机ノ上ノ空ノ日記 1

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19820717

僕はその日、一人で「赤屋根」の沢に行く事にした。

僕の生まれた街…北海道の南の小さな街…その外れにある沢だ。

ともだちの健一はピアノの練習で一緒にくる事が出来なかった。
だから今日は一人でザリガニを取りに行くのだ。

「赤屋根」は、廃屋になっている山小屋で、その名の通り真っ赤なトタンの屋根が貼られている。壁は無く、屋根を支える4本の丸太以外は何も無いシンプルな構造になっている。その丸太を伝って屋根に登る事もできる。僕たちの格好の遊び場だった。

その廃屋のすぐ近くは沢になっており、小さな湿地もあった。そこで、大きなザリガニが取れるのだ。茶色くて、穏やかな曲線をもった日本ザリガニだ。

「赤屋根」に行くまでには、僕の背丈よりも高く生い茂っている熊笹の薮を抜けて、杉林を越えて
進まなければいけない。
ちなみに杉林で熊らしき影を見たことがあると健一は言っていた。

今日は土曜日だから午後は土曜学校に行かなければならなかったのだけど、今日は教会の神父様に特別な用事があるらしく閉校になったのだ。

めったにない土曜日の自由な午後!

普通の小学生は、毎週土曜日はこんなにも自由な時間を過ごしているのだと思うと、本当に羨ましく感じた。
ちなみに僕は日曜日も朝から教会のミサに参加するので友達と自由に遊べない。
普通の小学生のようにアニメやヒーローを朝から楽しく鑑賞することなんてできない。

でも、健一も土曜日の午後はやりたくないと言っていたピアノの稽古をやっているんだな。
いつも一緒に生き物を取りに行く仲間で、いつも一緒にあそんでいたけど、あまり習い事のことは話していなかった。ただ、健一がピアノが嫌いだということは知っている。

いつも二人で通っている「赤屋根」も、自分ひとりで行くとちょっと怖い。
熊笹をかき分けて進んでも、いつも健一が先に進んでいたから、何だか少し緊張した。

でも、やっぱりあのザリガニを捕まえたときの、むっ・むっ...という指に伝わってくる命の蠢きを感じたかった。
そして、ちょっとぬるい湿地の泥に手を突っ込んで、生き物を見つけたときの喜びを感じたくて、僕は沢への道を小走りに進んで行った。

熊笹の薮を越えて、杉林の中に入る。杉林に入ると、まだ日は高いはずなのにとても暗いことに気づいた。林の中の草は、急に背丈が低くなった。

風が、止んでいた。

音も、止まっていた。

杉の木には、けばけばしい大振りなキノコが沢山生えており、みたことも無い大きく熟れた赤い実を付けた植物もあった。
幸い熊の影や足跡は見つけられなかったが、杉林の中に入ったとたん、空気が変わったことには気がついた。

不気味な気配を感じて振り返る。シン…とした林の中に動く物は無い。本当に風さえも止まっている。こんなことは、今まで外で遊んでいて初めての経験だった。
初めての経験をするとき、僕はとても不安になる。
いつもなら、健一とふざけ合いながら歩いていくから、こんな不安な気持ちにはならないのに…。

とにかく早く「赤屋根」に行かなくては!

僕は駆け足で杉林を通り抜けようと思い、走り出した。

どんどん走っていくけれど、いっこうに景色が変わらない。
いつもの感覚なら、もうとっくに杉林は通り抜けて、すすき野原にかわり、ほどなく赤く塗装されたトタンの屋根が見えてくる…はずだった。

でも、今回は違った。暗い林の中の下草をかき分けて走っても、木々は鬱蒼としていくばかりで、不安な気持ちが募って行った。

ひょっとして、道に迷ってしまった…?

僕はどれくらい走ったのか分からないくらい走った。
そして息が切れてしまったこともあり、立ち止まってしまった。
落ち着いて周りを見ようとする。
そうして初めて僕は慌てた。

見た事が無い景色…それは林ではなく、大きな森の中になっていたのだ!

自分がどこに居るのか、まったく分からない。どちらに進めば前に行くのか、どのように進めば元の道に戻れるのか…さっぱり分からない!

僕の心臓はものすごい速度で脈打ちはじめた!
森の中で迷ってしまったのだ!どうすれば戻れるのだろう!
日が暮れるまでに戻らないと、本当に怖いことになる!熊に襲われたら、絶対に助からない!

まだ日は高いはずだったが、森の中は夕暮れ刻のように暗く、僕は腕時計をもっていなかったから、今何時なのかを正確に把握することができなかった(もちろんGPSや携帯電話なんて、この時代にはない!)。

僕はとりあえず、今来た道を戻ろうとしてまた走りはじめた。息を整える余裕なんて無かった。
森は、走っても走っても同じ景色が続いて行く。
僕は自分の意志で森の中を走っている。にも関わらず、森の樹々の景色はその姿を変えず、全く終わる気配がない。
森の中にいるにも関わらず、狭い部屋に閉じ込められているような恐ろしい感覚を、僕はこの時経験することになった。

僕は天に祈り、助けてくださいと心の中で唱えながら、一心に森の中を走った。

しかし、ついに足が疲れ、一本の杉の木に寄りかかって止まってしまった。

…よく見ると僕が寄りかかった木は杉ではなく、白樺の木だった。
周りを見ると、そこは白樺の森だったのだ。

不思議と、その白い幹を見ると、心が落ち着いた。また、風が、そよいでいることに気づく事ができた。さっきまで恐ろしい不安に苛まれていたにもかかわらず、どうしたことか鼓動の速度も下がってきた。

遠くでとんびの鳴く穏やかな音が耳に入って来たからかもしれない。

ふと、頭の中がスッキリして周りを見回した。白い夏の風が僕の視線を誘導しているような不思議な感覚を経験した。

どこかで、だれかが「大丈夫。森はあなたを知っている。落ち着いて進みなさい」と言ってくれたように僕は感じた。

そして、「あなたが進む方向が、あなたの正しい道になる。おそれず進みなさい」という声も聞こえたように思った。

根拠は無かったが、そのような不思議な感覚を得て、また森の中を進みはじめた。
今度は走らず、ゆっくりと散歩するような気持ちで歩いていった。
本当に不思議な事だったが、さっきまでの影に満ちた陰鬱な樹々が、明るく白い樺の木の群れに変わっていた。日の光が差し込んでいたのだ。

太陽の光が、こんなにも心強いものだったとは、正直この時まで知らなかった。

まるで森の白い妖精に誘導されるように、僕は心強い気持ちのまま、森の中を歩いて行った。

やがて、白樺の森は途切れたがl、太陽の光は杉林の中にも差し込んでいたから、僕は恐れずに進む事ができた。そして、まだ日の光が高い事を知る事ができた。

どのくらい歩いたか分からないくらい、僕は杉林を進んだところで、見覚えのある赤く熟れた果実のついた植物と、杉の木に生えた鮮やかなキノコたちを見つけることができた。

つまり、帰路につく道まで戻ってくることができたのだ!

端正な顔立ちの白い森の妖精は、一礼をして僕の側から離れた。

そして、真っ赤なドレスをきた魔女と、ケバケバしい衣装を纏った醜い道化が二人でクククと笑ったように感じた。そんな幻影を見た気がした。
作品名:机ノ上ノ空ノ日記 1 作家名:机零四