禁断の実 ~ whisper to a berries ~
次の日久しぶりにトイレに行く時に、ふと鏡に映った自分を見てしまった。目の下には黒いクマができていて少し痩せている。もし友人が街で僕を見かけても、すぐには気づかないかもしれない。でもそんな事はどうでもいい。あの実さえあれば。
いつの間にか僕は、青い実が赤くなるまで『イブ』に声をかけ続けるだけの、壊れた人間になってしまっていた。
「おい! 大丈夫か?」
誰かが体を激しく揺さぶっている。
「誰だよう、放っといてくれよう」
かすれた声でこの言葉を言うだけなのに、相当な体力を使う。
「こりゃダメだ! 救急車を呼ぶぞ」
ぼんやり見えている顔は、たぶんマサトだと思う。だが、結局目の焦点は合わず、久し振りに泥のような眠りに僕は落ちて行った。
同じ日、大沢博之は図書館にいた。甥のマサトが預けていった小さな袋の紋章を調べるためだ。インカ文明を詳細に調べれば、この紋章にたどりつくはずであった。だが、ペルー南部高原にある首都クスコを起点に一日かけて調べ上げても、同じ紋章はついに見つからなかった。
少し顔を曇らせながら博之は図書館を出ると、背広のポケットから携帯を取りだし、友人がやっている古本屋に電話をかけ始めた。
「もしもし、大沢だ。元気でやってるか? ちょっと調べたいことがあるんだが、今から例の蔵書の部屋をまた解放してくれないかな」
神田神保町にあるその大きいが古びた店は、どの図書館にも無い貴重な本が置いてあった。店主の滝沢裕二は大学の時の同級生である。
「おお、博ちゃんか! 最近全く連絡が無くて心配してたよ。今から……うん大丈夫だよ。ただ、今日は姪っ子が遊びに来ているから、あまりお前の相手ができないかもしれないが」
「恩に着るよ。ありがとう」
すぐ行く旨を伝え電話を切ると、博之の顔に少し安堵の表情が浮かんだ。
神田の街は近くに大学もあり、学生が多く相変わらず活気があった。古本屋や楽器屋も経ち並び、ぶらりと散歩するには退屈しない街である。
タクシーを降りた博之は『カメレオン堂』という店に慣れた様子で近づいて行く。店頭には安い古本がところ狭しと並び、学生が足を止め、本をつまんでいる姿が見える。はたきを手に、店の前で人待ち顔の男は店主の裕二だ。
「よう、久しぶり。急で悪かったなあ。奈っちゃん来てるんだって?」
「ああ。せっかちなところは変わってないよな、おまえは」
気が置けない友達に久しぶりに会って、お互い顔が自然にほころんでいた。奈っちゃんとは裕二の姪っ子にあたり、博之とも面識がある。子供ができなかった博之夫妻は、この奈津美も甥っ子と同じように可愛がり、マサトも一緒によくプールに連れて行ったりしていた。
「あら、おじさん久しぶりじゃない。ちょっと白髪が増えたんじゃないの?」
店の奥から今どきの服装をした奈津美が出てきた。ホットパンツから長い綺麗な脚が窮屈そうに生えている。
「久しぶりに会ったっていうのに、憎まれ口を叩く所は昔とちっとも変わっていないなあ」
博之は苦笑いを浮かべながらも、嬉しそうに目を細めた。
「そう? ちょうど隣が薬局だから、白髪染めを買ってプレゼントしようかと思って」
屈託のない笑顔で博之の腕につかまる。奈津美は大学一年生で、都内の大学に通っていた。
「大きなお世話だ。しかし、あの奈っちゃんもずいぶん大人っぽくなったなあ。もし彼氏ができたらおじさんに会わせろよ。悪い虫は全員追い返してやるから。はっはっは」
お返しにからかうと、顔を赤くしてぷいっと店の奥に引っ込んでしまった。
「おいおい、久しぶりに会ったのに、何いきなりケンカしてんだ。とにかく入れよ」
裕二はからからと豪快に笑いながら、地下に博之を案内した。
地下の部屋の扉はずっしりとした南京錠で施錠されていた。それは入る人間を拒絶するような鈍い金色の光を発している。
「えーと、どれだったかな?」
鍵束を木のボードから取り、じゃらじゃらと音をさせながら裕二は鍵を探している。
「これだな。ほれ、自分で開けろよ。後でお茶を持ってきてやるから十分に堪能してくれ。あ、それと火気厳禁だからな」
「分かった。ありがとう」
大き目の鍵をぽんっと放り投げニヤリと笑うと、裕二はさっさと階段を上がって行ってしまった。
さっそく鍵を開け、小学校の教室ぐらいある地下の部屋に入ると、その圧倒的な蔵書の数に博之は一瞬立ち止る。部屋の空気はかび臭く、古本特有の匂いが周りに立ち込めていた。
「こりゃ今日中に見つかるのかなあ」
くるくると腕まくりをすると、薄暗い電気をたよりに本棚をひとつひとつ物色していく。
ここは知る人ぞ知る知識の宝庫であった。「本物の徳川埋蔵金の地図が隠されている」と噂が立ち、コアな来訪者は絶えなかったが、裕二はほとんどの者を門前払いにしていた。
埃まみれの床が博之の靴跡だらけになったころ、目当ての物が見つかったようだ。
「こいつは……」
『インカ文明と失われた都市』という本に目を止めた。背表紙は茶色く煤け、取り出してみるとページも茶色く変色している。しかし、これは貴重な本であるとともに、自分が探していた本でもあることがすぐに分かったようだ。何故なら、一ページ目にまさに皮袋に描かれていた、手のような【紋章】と全く同じものが書かれていたからだ。
二時間後、裕二が地下室にお茶を持っていくと、机に座ったまま頭を抱えている男が見に入ってきた。
「おい、どうした。ずいぶんと静かじゃないか」
返事はない。博之は誰か入って来たのも気づかない様子で、何かうめき声をあげながらメモと睨めっこをしている。
「大丈夫か? もし具合が悪かったら、一回出て休めよ」
電燈の光にきらきらと舞う埃を手で払いのけながら、裕二は心配そうに声を掛けた。
「ああ、大丈夫だ。しかし、なんてことだ。これは……何か『隠された場所』を暗示しているのか」
本をぱたんと閉じメモを鷲掴みにすると、裕二の肩をぽんと叩き博之は部屋を飛び出して行った。
「何だ……あいつ。ずいぶん深刻な顔してたな」
少し驚いた顔をしていたが、博之の変わった行動は昔から見慣れているようだ。お盆を手に持ったままふうっとため息をひとつつくと、頑丈な南京錠にがちゃんと再び鍵をかけた。
二日後、僕は病院のベッドで目が覚めた。腕からは点滴のチューブが伸びている。のっぺりした白い天井をしばらく見ていたら、傍に人の気配を感じた。首を右に曲げてみると、ちょうど教室で居眠りをするような恰好で母がすやすやと寝ている。
僕が動く気配を感じたのか、母は顔をゆっくりとあげた。目にどっと涙をためる様子がスローモーションのようにはっきりと見えてくる。
「良かった! もう目を覚まさないかと心配したわよ。大丈夫?」
家事と仕事で荒れていたが、暖かい手のひらで僕の手を優しく包んだ。
「ここはどこなの?」
記憶は定かでは無いが、家でマサトの顔を見た様な気がする。
「あんた二日間眠りっぱなしだったのよ。そうそう、さっきまでお友達がお見舞いに来てくれて、これを置いてったわ」
作品名:禁断の実 ~ whisper to a berries ~ 作家名:かざぐるま