Savior 第一部 救世主と魔女Ⅲ
あの幻の森は限りなく本物に近いものだった。記憶喪失で混乱があったとはいえ、なにせアルベルトがすぐに気付かなかったレベルなのだ。当然リゼも幻だとは思いもしなかった。――不覚なことに。
「創り出した奴ということは、あれを創ったのは魔物ではないということか?」
アルベルトがそう問うてくる。それに首肯を返して、リゼは続けた。
「魔物にしては高度すぎるわ。悪魔だとしても、何のためにあんなものを」
悪魔は人の耳元で甘言を囁き、時に陥れようと幻覚を見せる。だがそれは人の心に付け入るためで、見せるなら相手が最も恐れるものか最も焦がれるものを見せるだろう。何の思い入れもない、ただ通過してきただけの人喰いの森を見せる必要はない。
この神殿の奥には魔物の巣があるという。しかし、それを言ったのはキーネスだ。果たしてそれは本当なのか? 確かに、ここには魔物がいる。悪魔がいる。けれど、あれほど精巧な幻があることの説明にはならない。
それに、あの幻の崩壊だ。幻が壊れるような原因は見当たらなかったのに、突如としてあの空間は崩れた。幻術が崩壊するときのエネルギーでこちらを吹き飛ばそうとしたのか? それなら、誰かが作為的にあの幻の森を創ったということになる。
あれを創り上げたのは魔物ではない。おそらく悪魔でもない、と思う。
なら、あの幻を創り上げたのは誰だ? あるいは何だ?
「・・・・・・分からないわね。情報が少なすぎるわ」
そう言って、リゼはこの話題を打ち切ることにした。どちらにしろ、ティリーを見つけたらオリヴィアのいるところに戻って話を聞くことになっているのだ。ひょっとしたら、彼女が知っているかもしれない。
そうして、リゼ達はしばらく無言で階段を上がった。長かった階段を登り切り、平坦な通路を進んでいくと、少し開けた場所に出た。最初に見つけた広間とは、また違う部屋だ。ヒカリゴケの助けを借りながら広間をぐるっと見回すと、少し離れた場所の暗がりの中に人が倒れているのを見つけた。
「いた!」
広間の真ん中に、栗色の髪の人物がうつぶせに倒れている。ティリーだ。魔物に襲われて負傷でもしたのかと思ったが、服が少し焦げて破れているくらいで、血だまりもなく、遠目には目立った外傷はない。服の焦げ目は重力魔術の崩壊の余波のせいだろうからそれなりにダメージは受けているのだろうが、倒れているのはもっと別の要因のせいだろう。
ティリーに向かって駆け寄りながら、身体の陰に隠れていた左腕に目をやる。近付くにつれ、隠れていた部分があらわになった。
ティリーの左腕から伸びる緑色の芽。破れた袖の隙間から顔をのぞかせて、小さな葉を茂らせている。完全にダチュラの苗床になるには時間がかかると言うが、成長しすぎたら取り除くのに手間がかかるから、速いことにこしたことはない。
リゼとアルベルトは足早にティリーに近付いた。今の所魔物の気配はない。しかし、いつやってくるか分からない。その前にさっさと種を除いてしまわなくては。
するとその時、広間の暗がりから、鈍く光る銀色を手にした影が飛び出してきた。振り下ろされた刃を避けるため身を引くと、斬り裂かれた服の切れ端が飛んでいく。とっさに風の魔術を紡いで衝撃波を創りだすと、弾かれた影はそのまま後ろに飛びのいて距離を離した。代わりに向かってきたのは一本のナイフ。まっすぐ飛んできたそれをアルベルトが打ち落とす。弾かれたナイフは澄んだ音を立てて床に転がった。
「またか。一体なんのつもりなの」
剣を抜き、アルベルトの横に並んだリゼは、眉を顰めながら目の前に立ちふさがる人物にそう言った。刃を向けられるのはこれで二度目。一度目は崩壊する幻の森でのことだ。あの時は記憶がなかったから何者か分からなかったが、今は分かる。
「君は何故こんなことをしているんだ? 俺達を神殿に閉じ込めて、一体なんのメリットがある?」
油断なく剣を構えながら、アルベルトが疑問を投げかける。答えはすぐには返らない。だが相手は斬りかかってくることはしなかった。ただじっと、何かを考え込むようにこちらを見つめ続けている。長い沈黙が流れた後、キーネス・ターナーは閉ざしていた口をようやく開いた。
「仲間を救うためだ」
キーネスは表情を変えることも殺気を緩めることもしないまま、短くその台詞だけを述べた。その声音は重く、堅い決意がうかがえる。だが、
「仲間? ゼノのことかしら」
キーネスの答えは簡潔だったが、同時に簡潔すぎてどういう意味か分からないものだった。仲間。仲間とは誰だ。キーネスの親友で、仲間であろうゼノ・ラシュディはここにはいない。それとも彼がなんらかの危機に陥っているというのだろうか。
リゼの問いにキーネスは首肯を返す。
「そうだ。だが、あいつだけじゃない。この神殿の奥で悪魔に取り憑かれて囚われている奴がいる。俺が助けたいのは、そいつだ」
悪魔に取り憑かれて囚われている仲間? 退治屋仲間だろうか。それとも情報屋か。
「仲間を助けるには、悪魔のために新しい入れ物を用意するしかない。一番いいのは、優れた技量をもつ魔術師だ」
そう言って、キーネスは倒れ伏すティリーにちらと視線をやる。眼を出し、小さな葉を茂らせるダチュラ。ティリーの記憶喪失はおそらく相当進んでいるだろう。新しい記憶ほど消えていくならば、記憶が巻き戻っていくならば、最終的に幼児退行してしまうのかもしれない。自我もなく、まっさらな状態になってしまうのかもしれない。
そうなれば、入れ物にはうってつけだろう。
「なるほど。ティリーを悪魔に献上しようというわけね」
「そうだ。お前でもいいがな。ランフォード」
感情をこめず、物を選ぶかのように淡々というキーネス。優れた魔術師なら誰でもいい、か。確かにその条件にあてはまるだろう。だが、そんなことは出来ないことをリゼは知っていた。
「私を悪魔の入れ物にするのはやめておいた方が良い。そんなこと、不可能よ」
そう言うと、キーネスは特にがっかりした様子も当てが外れた様子も見せず、淡々と「そうかもな」と呟いた。
「悪魔を祓う“救世主”なぞ悪魔の入れ物には不適格だ。だがどちらにしろ、俺はお前達の記憶を消さなければならない。仲間を守るためには、奴からの命令に従わなくてはならないんだ。記憶を消して、集落の住人を増やすこと。これが俺の仕事だ」
そう言った途端、キーネスは凄まじいスピードでリゼに斬りかかった。咄嗟に剣で防ごうとしたが、反応が間に合わない。すくい上げるような一撃に、高らかな音を立てて剣が飛んでいく。がら空きになった胴に刃が迫る。後ろに倒れこむように剣戟をかわすと、追撃が来る前にアルベルトの剣がキーネスの双剣を弾いた。リゼが体勢を立て直して距離を取っている間に、アルベルトとキーネスが互いに刃を向けて対峙する。
「先程の幻の森でも剣を向けてきたな。あれは、俺達を記憶喪失のままでいさせるためか?」
「そうだ。解毒剤を手に入れられたら困るからな。あの時は妨害しそこなったが・・・・・・。エゼールを持っているんだろう? それを貰う。記憶を復活させる手段は全て排除する」
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅲ 作家名:紫苑