夢盗奴
いつの間に寝てしまったのだろう。物音に気付いて目を覚ますと、人の動き回る気配を感じた。そして先ほどの看護婦のことを思い出した。あの女性がまだ部屋にいるのか?鼻
歌が聞こえる。清んだ優しそうな声だ。その声が話しかけてきた。
「中条さん、寝巻きを替えて置きましたからね。また明日来ますから」
この言葉を聴いて微かに記憶が甦った。彼女は「また明日来ますからね」と言い残して部屋を去る。それは幾度も繰り返されているような気がする。記憶の糸を必死で手繰り寄せた。そして漸く一つの感情に思い当たった。
それは、その声を聞いた時の喜びの感情だった。その声を聞きたくて、毎日毎日心待ちにしていた。その声が唯一の心の支えだった。そう思った瞬間、全ての記憶が甦った。俺はここで気の遠くなるような時を過ごしてきている。やはり、若き日の自分に会ったのは夢だったのだ。
そうだ、俺は植物人間状態になってしまったのだ。今から三年前、二度目の脳卒中が引き金だった。心がゆっくりと落ち着いてゆくと、目覚めるたびに味わう不安と動揺が胸を締め付ける。そして、今度は絶望という奈落へ落ちてゆく。
再び目覚め、虚ろな意識に鮮明な記憶が蘇る。そして思い当たった。不安と動揺、そして絶望へと繰り返される毎日から逃れたい、もう一度やり直したい、という儚い思いが、あんな夢を見させたのだ。何ということだ、絶望という奈落の底にまたしても絶望が!
最初の発作に襲われたのは寒い冬の朝だった。会社に遅れそうになって駅まで走って電車に飛び乗った。そして発作に襲われた。目覚めると目の前に不安そうに自分を見つめる洋子の顔があった。一瞬、その顔に歓喜の表情が広がった。
「あなた、あなた。目覚めたのね、ねえ、私が分かる、洋子よ」
「ああ、大丈夫だ」
「よかった。電車に乗ってすぐに発作が起きたから、駅前の病院に担ぎ込まれたの。だから大事に至らなかったみたい。駅前に病院があったのだから本当に不幸中の幸いだったわ」
「俺の体はどうなっているんだ。下半身の感覚がない」
「ええ、正直に言うわ。麻痺が残っているの。でも、リハビリすれば何とかなるって、先生が仰ったわ。ねえ、頑張りましょう。私も協力する。出来るだけ頑張るのよ。会社のことは忘れて」
地獄のリハビリがその時から始まった。
何度も投げ出しそうになった。何度も喧嘩して罵り合った。何度も二人で泣いた。勝はそんな二人をおろおろしながら見ていた。二人は勝が嫉妬するほど仲睦まじく、争ったことなどなかった。勝にとって、こんな二人を見るのは初めてだったからだ。
少しづつだが右足が動くようになった。続いて左足が引きずるようにだが、何とかそれに倣った。それを見て、洋子の目に涙が滲んだ。中条はようやく洋子の胸奥を覗いた気がして、自らの弱さを克服しようと決意を新たにしたものだ。
そして、それまで心の奥底で燻り続けていた洋子に対する疑惑など吹き飛んでしまった。洋子に対する疑惑は全く馬鹿げた妄想だったのだ。洋子は中条を心から愛している。中条
を必要としている。そのことが分かった。
その妄想の発端は、最初の発作よりだいぶ前に遡る。演劇部の先輩である阿刀田から夫婦宛にパーティの招待状が届いた。テレビで活躍する阿刀田は遠い世界の人間だと思っていただけに、二人は飛び上がらんばかりに喜んだ。
帝国ホテルで行われたパーティにはテレビでお馴染みの文化人の顔もちらほら見られた。二人は遠くから主役である阿刀田を眺めていた。そんな二人に後ろから声がかかった。
「おい、相変わらず見せ付けるじゃないか。そろそろ倦怠期に入ってもおかしくない時期
だ。まして子供までいるんだろう」
振り返ると、桜庭と上野がグラス片手に微笑んでいた。演劇部の悪友達だ。洋子が嬉しそうに応じる。
「うわー、懐かしいー。二人とも何年ぶり。桜庭ちゃんに昭ちゃん。昔と少しも変わってないわ。ねえねえ、私はどう?変わった」
昭ちゃんこと上野がすぐさま答えた。
「洋子は変わったよ。美少女から妖艶な美人妻にね。本当に翔がうらやましい。こんな美人と毎日暮らしていられるなんて」
「でも、毎日だと飽きるんだ。古女房でよければ、…」
洋子が睨んでいる。中条は笑いながら続けた。
「冗談、冗談。毎日が新鮮で、朝起きる度にときめいている」
「なによ、今更。許さないから、家でお仕置きよ」
みな、どっと笑った。ひとしきり昔話で盛り上がった。そんななか、桜庭がにやにやしながら言った。
「しかし、阿刀田先輩がこれほど出世するとは思いもしなかった。でかい図体して、ただただ舞台の上を右往左往していただけなのに、今じゃどうだ、映画、舞台、テレビと乗りに乗ってる。人生、どこで、どう変わるか分かったもんじゃない。でも、奴も思い切ったもんだ。しかし、そこまでやるかね。いくら出世と引き換えだとしてもだ」
上野もにやにやしながら頷き、グラスのシャンペンを一気に飲み干した。中条は桜庭の言っている意味が分からず聞いた。
「おいおい、ふたりとも何にやにやしているんだ。それに、思い切ったというけど、阿刀田先輩は何をどう思い切ったんだ?。俺達にも分かるように教えてくれよ」
「業界じゃ有名な話さ。それに一部女性週刊誌にもすっぱ抜かれたこともある。阿刀田先輩は、その週刊誌の記者にそうとうの金を積んで黙らせたって話だ」
桜庭は広告代理店の営業マンだから、この業界の噂にも長じている。顎をしゃくって彼方の一団を示し、小声で言った。
「あそこにいる白髪の老人を知っているか。取り巻き連中に持ち上げられて、ふんぞり返っている脂ぎった老人がいるだろう。あいつだよ」
「いや、知らん」
「わが大学の先輩で、演劇評論家の飯田久だ。そして、あの飯田先生のお気に入りはみんなホモ達だってことさ」
「つまり阿刀田先輩も、ってことか?」
中条は思わず絶句したのだが、洋子の反応は意外だった。
「信じられない。私、阿刀田先輩に憧れていたのに。でも、芸術家ってみんなその気があるみたいよ。だってミケランジェロやダビンチだってそうだったって言うじゃない。でも、それって本当の話なの?」
「ああ、本当のことだ。この業界じゃ有名な話よ。おっと、おい、おい、こっちに来るよ。奴がこっちに近づいてくるって」
四人は引きつった顔に笑顔を載せて、主役の登場を迎えた。阿刀田はその長身をゆらゆらさせて歩いてくる。その顔は得意満面で、ゆとりの笑みをうかべ四人の前に足をとめた。
「おい、おい、懐かしい顔ぶれだ。洋子ちゃん、幸せになれて良かったな。中条君は君の憧れの的だった。おい、おい、中条、新宿で偶然出会ったのは何年前だ。確か、子供が生まれたって言っていたよな」
中条が、それに答える前に、洋子が答えた。
「息子はもう小学五年になります。ところで阿刀田先輩のことは、いつもテレビで拝見しております。主人と違い阿刀田先輩は初心を貫徹なさって、演劇の道を邁進なさった。本当に立派で…」
中条が、横目で窺うと、洋子の顔が上気しているのが分かった。中条が話しを引き取った。
「おい、おい、俺が日和ったのは、お前との結婚のこともあったんだ。お前だって、ちゃんとした所に勤めてくれって言ってたじゃないか。忘れたのか?」