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夢盗奴

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 勝はその発作で事切れた。それでも二人は気を取り直し、必死の思いで中条の家に脅迫電話を入れたというのが真相である。そもそも誘拐そのものが、朝思い付き、昼行動を起すという杜撰極まりないものだった。
 洋子と阿刀田はその日のお金に事欠くような生活から抜け出そうと知恵を絞った。そして洋子が上野から聞いた話を思い出したのだ。それは中条が無類の子煩悩だという話である。二人は近くのファミリーレストランで昼食を済ませ、その足で中条の家に向かった。
 二人が犯行のため事前に準備したものは何もない。あったとすれば車だけで、その車のトランクから勝の遺体が発見された。犯行があの時刻になったのも、洋子が中条の家までの道程を覚えておらず、探し回った結果だった。
 二人は夕方近くなって、ようやく中条という表札を見つけ車を止めた。その時、子供が門から顔を出したという。洋子が道を聞く振りをして、ウインドウを開けて話しかけた。阿刀田は運転席から降りると、後ろへ回り、勝の首をつかんで後部座席に押し込んだのだ。
 計画性の欠片もない。阿刀田は、大きな体をすぼめるだけすぼめ、震える声で証言した。二人の犯行のお粗末さ、身勝手な思考と行動、中条は、阿刀田のその歪んだ口からこぼれる言葉をただ呆然と聞いていた。
 それでは何故、洋子は勝の病気を知っていたと言ったのか?知っていて薬を捨てたと言い放った。もし、あんなことさえ言わなければ、中条もあれほどの凶行には及ばなかったはずだ。知らなかったと許しを請えば、まさか殺すまで殴りはしなかった。
 中条は裁判で終始無言のまま通した。妻の雇った弁護士の前でもそれを通した。何を言っても空しく、魂が体から離れて、裁判の成り行きを上の方から見ていた。その目には、明らかに自分自身も映っていたのだ。髪の毛が真っ白に染まり、やせ衰え、まるで老人のようであった。

 一瞬、中条の脳裏に、前世の惨たらしい記憶が甦りそして消えていった。ふと、我に返ると、質屋から出てくる若き日の自分に釘付けになっている自分を意識した。次の瞬間、若者に向って足早に近付いていった。
 何かを言わなければ。彼を、いや自分を説得しなければ。再びこの世の地獄へと突き進んでしまう。前世では闇雲に自分の激情をぶっつけてしまった。果たしてあれが良かった
かどうか、迷いが脳裏で渦巻いた。ではどうすればいいのだ。
 若者は中条を見て、驚いたように立ち止まった。白髪の男がじっと自分を見詰めながら近付いて来たからだ。若者の驚いた表情を見て、一瞬、中条の脳裏に前世の過酷な結末が思い浮んだ。中条の足はぱたりと止まった。若者が唐突に声を掛けてきた。
「僕に、何か?」
中条は、荒い息を整えながら言葉を選んだ。
「君は、喫茶店で、彼女と待ち合わせしているんだろう」
「ええ、お爺さんは、彼女を知っているんですか」
中条は一瞬迷ったが、思い切って前世とは別の道を選ぶことにした。
「いいや、知らない。ただ、さっき、君と彼女が喫茶店で話しているのをたまたま見たんだ。彼女は、昔別れた女房にそっくりだった。その女房には随分と酷い仕打ちをしてしまってね。もしかしたら、彼女はその人の縁者じゃないかと思ったんだ。さしつかえなければ、彼女の名前を教えてもらえないか?」
「樋口洋子です」
中条は首を傾げ、ふーんと唸っただけだ。若者はすぐにでも立ち去りたい素振りで中条を見ている。中条は若い自分に一言だけ言葉をかけた。
「彼女を大事にしなさい」
一瞬怪訝な表情をしたが、解放される安堵感の方が勝ったのだろう、笑顔を浮かべて若者は通りに向って歩き出した。中条はその後姿をじっと見詰めた。
前生では、自分であるあの老人の言葉に洋子のイメージが大きく傷付けられた。その傷つけられたイメージは大きく膨らむことはなかったが、人生のどの局面においても脳裏にふわっと浮かんできた。
 それがために洋子と別れる道筋を自ら作っていってしまったのだ。洋子とは結ばれるべきだった。そうすれば、あんな悲劇を招くことはなかった。勝という愛する者を失い、自暴自棄に陥って人生を狂わせた。前世ではその憎しみのあまり洋子を殺してしまった。
 考えてみれば、洋子の自殺未遂も、中条を失うという恐れに端を発していたのかもしれない。人は誰しも愛する人を失えば自暴自棄に陥る。洋子は中条を心から愛していた。だから自殺を試みたのだ。そして、相手を憎む気持ちを極端に増幅させたことが道を大きく誤らせる結果を招いた。
 まして、前世では12年ぶりの再会で、洋子が最初に言った言葉が中条を困惑させた。「この嘘吐き。やっぱりあの女と結婚したんじゃない」
洋子はずっと中条を憎み、そして愛していたのだ。やはり洋子を許すべきだ。中条は先ほど過去の自分に投げかけた言葉を反芻した。
「彼女を大事にしなさい」
 その言葉は中条の胸に心地よく響いた。そうだ、これで良かったのだ。中条は目を閉じ勝が再び生まれてくることを願った。中条の分身である勝が、今度は洋子を介してこの世に生をうける。これも一つの道かもしれない。そう思った。

 意識が遠のいた。地面がぐるりと回り、空も回った。砂利が頬を傷つける。確かアスファルトで舗装されていたはずだ。薄目を開けて地面を見ると、砂利道がすっとアスファルトに変わった。大通りから人が歩みよってくる。その足取りが速くなった。
 しばらく気を失っていたらしい。体が浮いたような感覚がして目覚めた。目の前に白衣を着、白いヘルメットを被った男の顔があった。何かを話しかけている様子だが、声は聞こえない。
視界の周辺がじわじわと黒く染まり、終いには漆黒を塗りたくったような暗闇に変わった。

 目覚めるとそこにはやはり暗闇が広がっていた。額の真ん中あたりに意識の核があり、そこで自己を認識しているだけだ。今の自分の状態がどうなっているのか、目蓋を開こうにもその目蓋の筋肉がどこにあるのかさえ分からない。すべての感覚がないのだ。
 いや、唯一、感覚だけはある。廊下を行過ぎる人々の足音や話し声が聞こえてくる。楽しそうな笑い声、スリッパのぱたぱたという音、そこは音に溢れていた。人が入ってくる。カーテンを開ける音。そしてその人が話しかけてきた。若い女性の声だ。
「中条さん、今日の御加減はいかがですか」
何度も聞いた優しい声だ。いや、そんなはずはない。ほんの少し前、若き日の自分に出会ったばかりだ。そう、前世の失敗を省みて、若い日の自分に、洋子の悪いイメージを植えつけるのを思い留まった。今、その鮮明な記憶が残っている。
 若き日の自分に話しかけた直後、気を失った。そして病院に運ばれたのだ。だから、その看護婦の声にこれほど馴染んでいるはずはない。それとも、若き日の自分と出会ったのは夢だったのだろうか。その時、もう一度その声が聞こえた。
「さあ、体温を測りますよ」
確かに聞き覚えのある声だ。もしかしたら、救急車で運ばれてから何度か目覚めて、この看護婦の声を聞いているのかもしれない。そのことを思い出そうと神経を集中すると、激しい頭痛に襲われた。そして朦朧としてきた。
作品名:夢盗奴 作家名:安藤 淳