夢盗奴
マンションの前までくると、上野はしゃがみ込んで抵抗した。ここで帰らせてくれとしきりに懇願する。しかたなく解放することにした。
マンションを見上げると、上野の示した部屋は電気が灯っている。もし、中条の勘が正しければ、勝はそこに居る。もしいなければ、阿刀田のねぐらということだが、そのねぐらは、洋子が知っている。警棒で脅せばすぐにでも口を割るはずだ。
エレベータで8階まで上がった。806号室のドアの前まで音も立てず近付いた。ドアに耳を当てるが、テレビのニュース番組の声が微かに聞こえるだけだ。ノブを回しドアを少し開けた。アナウンサーの声がはっきりと聞こえる。
玄関には男物の革靴が置いてある。廊下の先は居間なのであろう、ドアの隙間から明かりが漏れている。後ろ手にドアを静かに閉めたつもりが、バタンと大きな音を立ててしまった。廊下の先のガラス戸が開いて男が顔を覗かせた。阿刀田である。
「誰だ、そこにいるのは」
見つかってしまったからには、覚悟するしかない。中条は意外に冷静な自分に驚いた。
「先輩、お忘れですか、後輩の中条です」
居間の空気が大きく揺れ、阿刀田の顔が歪んだ。
「上がらせてもらいます」
後ろで女の囁くような声がする。すると阿刀田が叫んだ。
「おい、勝手にあがるな。いま取り込んでいるんだ。用事があるなら外で聞こう」
こう言うと、ガラス戸を開けて出てきた。玄関まで来ると仁王立ちで中条を睨み付けた。190近い大男だ。無理やり作った険しい顔。しかし、そこには疚しさと恐れが貼り付いている。中条は笑みを浮かべながら口を開いた。
「いいマンションじゃないですか。ちょっと中を見せてください。」
上がり込もうとすると恐ろしい力で突き飛ばされ、ドアに頭をぶつけた。怒りが炸裂した。体勢を立て直し、右手に隠し持った警棒を振り上げ、阿刀田の脳天に思いきり振り下ろした。阿刀田は声もなく、その場に崩れるように倒れた。靴をはいたままずかずかと廊下を歩いてガラス戸に向う。
居間の空気が激しく動いた。玄関での異常を察知したのだろう、中で洋子が蠢いているのが手に取るように分かる。中条は急いでドアを開け、中に踏み込んだ。洋子は背中を見せ、サイドボードの抽斗を探っている。
洋子が振りかえった。目は血走り、唇をわなわなと震わせている。
「この嘘吐き。やっぱりあの女と結婚したんじゃない」
この言葉に、中条は一瞬十二年まえにタイムスリップしたような感覚に襲われ、生真面目に言い訳の言葉を捜した。しかし、すぐに勝のことを思いだし、憎しみを顕に睨みつけると、そこには醜く年を重ねた女が、中条以上に憎しみを剥き出しにして見上げていた。
艶やかだった肌はかさかさに乾いて、額に寄せた皺の深さを際立たせ、無理なダイエットでもしたのだろうか、たるんだ皮膚が首に二重の線をえがいている。一瞬にして現実に引き戻され、怒りが爆発した。
「勝はどこだ」
自分でもびっくりするような怒声が響き渡る。洋子はそれにもたじろがず、ふてぶてしく笑った。さっと振り向くと、その右手には拳銃が握られている。
「私達の一億円はどこなのよ。手ぶらで来るなんて、どこまで、あんたは私をコケにする気なの」
その顔には憎しみと卑しさがあるだけで、疚しさの欠片もない。
「やはり、貴様等だったんだ。勝はどうした。何処にいるんだ」
「死んだわよ。苦しがって死んだわよ」
この冷酷な言葉が中条の心を襲った。心が絶叫し、絶望が目の前から光りを奪った。気がつくと床に頬をつけて倒れていた。一瞬にして全ての筋力を失ったのだ。視線が洋子の勝ち誇った顔を捉えた。涙が止めど無く流れる。
「何故なんだ。何故、あんないたいけない子供を殺す必要があったんだ」
洋子の、あくまでも冷静な声が響く。
「殺してはいないわ。勝手に死んだのよ」
「勝は薬を持っていた。お前じゃないのか、勝を誘拐したとき、首のペンダントを引き千切ったのは、お前じゃないのか」
中条は洋子の目をじっと見入った。しかし、洋子の目に邪な激情が走ったことには気付かない。一方、洋子の脳裏には若き日の無念の思いが彷彿と蘇った。自殺するほど悩んだのだ。憎悪の刃が鎌首をもたげた。
「そのペンダントの中に薬が入っていた。発作が起こった時、それを飲ませれば勝は助かった。それともあのペンダントに薬が入っていることを知っていたのか、知っていて引きちぎったのか?」
洋子は、憎しみに歪んだ顔を更に歪ませ、肩を大きく上下させている。洋子の邪な激情が思索を重ねている。相手を最も効果的に傷つける言葉を探していたのだ。その顔を見ているうちに、中条の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。もしかしたら、
「お前は知っていたんじゃないか。勝の病気のことも、薬のことも知っていたんじゃないのか」
沈黙があった。洋子はじっと中条を見詰めている。一瞬その顔が奇妙に歪んだ。洋子の表情を読み取ろうとしている中条には笑ったようにしか見えなかった。実は洋子はようやく相手をより深く傷つける言葉を探り当てたのだ。
ゆっくりと薄い唇が開かれた。
「ええ、知っていたわ。だから薬を捨てたのよ」
この瞬間、中条は、すっと血の気が引くのを感じた。洋子は最初から知っていて、勝の命を守る薬を捨てた。自ら手を下し殺そうとは思わないまでも、発作を起させ死を誘発させたのだ。それは中条に対する復讐に他ならない。
絶望が憎悪へと変わってゆく。
中条はゆっくりと体を起こし、床に転がる警棒を拾い上げた。膝を立て、起きあがろうとした。洋子が叫んだ。
「じっとしているの。そのまま座りなさい。どうしても一億いるの。だから今度はあなたが人質よ。動かないで。撃てないと思ったら大間違いよ」
洋子の言葉を無視して立ちあがり、一歩踏み出した。洋子は銃口を中条の太ももに向けた。同時にカチッという金属音が響いた。弾が入っていなかったのか、或いは不発だったのか。
中条は、恐怖に顔を歪ませた洋子を見下ろした。洋子は両手で拳銃を握り直し中条の胸に向けて引き金を引き続けた。カチッカチッという音が空しく響く。洋子の顔が恐怖で歪むのを、中条は眺めていた。
洋子の右腕に向けて、警棒を渾身の力を込めて振り下ろした。骨の砕ける音がした。洋子は悲鳴を上げ、顔を歪ませた。なおも警棒を振り上げる中条を見て、左手で後頭部を抱えながら床に這い付くばった。
最初の一撃で、頭にかざした左手が潰れた。それでも頭を守ろうと血だらけの手を頭にかざして蠢かせている。二発目で、その手も動かなくなった。三発目で、頭蓋骨が割れ、脳漿がこぼれた。四発、五発と数えて十五発目で警棒が飛んだ。血でぬるぬるしていたのだ。
「えへへへ」
照れたように笑いながら、警棒を拾うと、また殴りはじめた。
第四章 目覚め
結局、裁判で明らかになったのだが、洋子は勝の病気のことなど何も知らなかった。金のペンダントは勝が暴れた時に、阿刀田が誤って引き千切ってしまったようだ。そして、車に押し込んだ時に発作が起こった。二人は苦しむ子供をどうしたらよいか分からず、手をこまねいていただけだと言う。