夢盗奴
しばらく歩いて、悲鳴をきいたような気がした。散歩の途中だったが、中条はすぐさま引き返した。家に駆け付け、るり子を呼んだが返事はない。遠くで勝を呼ぶ声が聞こえ、それが徐々に近付いてくる。るり子は勝を探して家の近所を必死で駆けまわっていたのだ。
曲がり角からるり子が飛び出して来た。中条は駆けよって取り乱するり子を抱きしめた。るり子が見覚えのあるペンダントヘッドを掌に載せて涙声で言う。
「これ見て。このペンダントを見て、門の前に落ちていたの。どういうこと、ねえ、これってどうゆうことなの」
中条はペンダントを取り上げ、じっと見入った。ペンダントの蓋を開けると、ニトロの錠剤が二つとも残っている。見ると金の鎖の留め金がなくなっていた。
「どこに落ちていた?」
「この辺よ。確かここだと思う」
るり子の指差す場所を、中条は這いつくばって探した。案の定、その留め金がそこに落ちている。それを拾い上げ重い口を開いた。
「引っ張ったんだ。引っ張って留め金が飛んだ」
「誰が引っ張ったの。勝が自分で引っ張ったって言うの」
「分からん」
「ねえ、ちょっと、ちょっと、ねえ、聞いて、家で電話が鳴っているわ。厭な予感がする」
そう言うと、るり子は駆け出していた。中条も、まさか警察から?と思ったが、いくらなんでも早すぎる。すぐさま不安を振り払うと、るり子の後を追った。
居間に入ると、るり子の絞り出すような声が響いた。
「お願い、勝を返して。お願い、何でもするから。そんなこと、そんな、警察なんかに電話なんてしないわ。言われなくたって分かっています。お願い、勝が生きて帰れるなら、何でもします」
るり子の顔はくちゃくちゃで涙も洟も一緒になって口元を濡らしていた。
中条は、るり子から受話器を奪うと耳に当てた。男の潰れたような声が響く。
「奥さんよ、分かってりゃあいい。万が一にも警察に届ければ、間違いなく息子の命はない」
中条が受話器に向かって叫んだいた。
「おい、聞いてくれ。勝は心臓が悪いんだ。もし発作に襲われて、ニトロがなければ死んでしまう。金は何とかする。いくら欲しいんだ」
「おや、旦那さんか。その方が話しは早い。いいかよく聞け、一億円を用意するんだ。びた一文まけない。きっちりと揃えてもらう」
「今日は日曜だ。ましてそんな金などない。現金はせいぜい4千万、証券はあるが現金化には時間がかかる。家を売ればなんとかなるが、すぐにというわけにはいかない」
「現金が4千万だと、おい、ふざけたことを言うな。近所の噂じゃあ、金庫に金が唸っているそうじゃねえか」
「内実は違う。親父の残してくれた財産はあらかたお袋が使ってしまった。俺に残されたのはこの土地と僅かばかりの現金だ。だから一億作るとなると土地を売るしかない。」
「その辺の土地は一坪幾らくらいするんだ?」
「100万がいいところだ」
「ヒュー、6億か。すげえな。ではこうしようじゃねえか。いいか、よく聞け。坪50万で大手の不動産会社に打診しろ。明日、朝、一番で電話するんだ、いいな。そして内金として一億早急に用意してもらえ。明日、午後7時に電話する。くれぐれも言っておくぞ。仲間がお前の家を見張っている。変な動きがあれば、子供の命はない。これは脅しじゃない。分かったな」
「待ってくれ、せめてニトロを子供に持たせたい。どうすればいい」
「子供は大事に扱っている。安心しろ」
そこで電話は切れた。
「どうするの?」
るり子の声は震えていた。中条は、それには答えず、すぐさま駅前の不動産屋に電話を入れた。裏庭を処分して以来、そこの社長とは親しい。社長は坪50万という言い値に飛び付いた。明日、午後3時までにありったけの現金を用意することも承諾してくれた。
社長は売り急ぐ中条の様子に不審を抱いたようだが、チャンスをつかんだ興奮の方が勝った。るり子に明日一番で4千万円を銀行からおろすよう指示し、中条は出かける用意を整えた。1億には足りないが、万が一の時の用意だ。実は犯人の目星はついていた。
犯人の言った「6億」という金額が鍵なのだ。100万で6億。犯人は土地が600坪だと思っている。母親が死んで相続税を払うために止む無く300坪を売ったのが28歳の時。つまり、犯人の情報は中条が28歳以前のままだ。つまりそれ以前に交友があり、その後途絶えた奴が犯人ということになる。
そして、それは洋子以外にありえなかった。家に招待し裏庭を散策した時、洋子が聞いた。「随分広い土地ね。これって何坪あるの」と。中条は止む無く答えた。小さな頃から自慢していると思われるのが厭で、殆ど人に喋ったことなどない。その例外が洋子なのだ。
その洋子を手繰り寄せるには、上野に会う必要がある。何故なら、同窓会の折り、桜庭は上野と洋子の関係を怪しいと匂わせた。桜庭はその方面の勘が鋭い。学生時代、洋子を巡って一時険悪になったことがあったが、その時そう感じたのだ。
上野はすぐにつかまった。六本木の店ではなく新宿のバーで待ち合わせた。上野は20分ほど遅れてきたが、席に着くなり聞いた。
「でも、洋子が勝ちゃん誘拐に関係しているっていうのは本当なんですか。なにかの間違いじゃありません」
「間違いない。洋子は表には出ていないが、絶対に関わっている。洋子が何処にいるか知りたい」
「僕に彼女の居場所を聞くなんてお門違いですよ。僕が知っているなんて、何故思ったんですか?」
中条はいきなり胸倉をつかんだ。
「勝の命がかかっている。貴様の嘘や言訳に付き合っている暇はない。お前が洋子に惚れていたのは俺が一番よく知っている。自分の店に来た洋子をお前が見逃すはずはない」
上野の目はすぐに真っ赤に染まった。
「分かりましたよ、苦しいから手を離してください。先輩、お願いします」
と震える声で答えた。
上野が話し始めた。確かに阿刀田主催のパーティのあった頃、上野は洋子と付き合っていた。熱をあげ、女房には内緒で赤羽にマンションを買い与えていたのだ。しかし、次第に、上野は自分以外に男がいるのではないかと洋子を疑いはじめた。
そして、ある時、思い切ってマンションを見張ったのだが、上野はそのエントランスから出てくる男を見て自分の目を疑った。それが阿刀田だったと言うのである。
「阿刀田はまだ演劇で食っているのか?」
「いいえ、奴はあのパーティの直後、公演を開けず劇団を解散して、姿を消していましたから、本当にびっくりしました。まさか阿刀田先輩が洋子と出来ていたなんて」
「それでどうした」
「洋子は諦めました。マンションの借金は残っていましたけど、それは引き受けることにして、手を切ったんです。洋子は、それからも僕の友人やらに粉をかけて歩いたらしいけど、誰も相手にしません。だってそうでしょう。当時、美人とはいえ、既に36を過ぎていましたから」
「まだ、そのマンションにいるのか」
「多分いると思います」
「よし、案内しろ」
怖がる上野を無理やり赤羽まで引きずって行った。途中の商店街で警棒を買い込んだ。上野が恐れる阿刀田の粗暴さは演劇部の誰もが知っていた。そんな男が何故演劇なのか、皆、首を傾げたものだ。そんな男に素手で立ち向かうわけにはゆかない。