夢盗奴
不満だったが、それは勝が物心ついてからでも遅くはないと思っていた。
そんな幸せな日々が壊れてゆくなど思いもしなかった。子供の成長を見守り、家庭から巣立つのを助け、そして夫婦して老いてゆく。そんな人生を送るものと漠然と考えていた。ゆっくりと時間は流れ、勝は5歳になろうとしていた。
その頃、大学時代の演劇部の同窓会通知が舞い込んだ。主催者は一年先輩の阿刀田だった。彼は唯一人初心を貫徹し、演劇で飯を食っている男だ。中条のように最初から日和って一般企業に勤めた人間を心のどこかで軽蔑しているようなところがある。
中条は行く気はなかった。どうせ阿刀田の独壇場になることは分かっていた。何年か前、偶然、阿刀田と新宿ですれ違ったことがあった。るり子と見合いし、新宿御苑へ向かう途中だった。阿刀田は、るり子にねっとりとした視線を送って、「ちょっと紹介しろよ」と下卑た口調で言ったものだ。
中条は適当にあしらって、その場をやりすごしたが、そんな短い時間でさえ、大学の先輩である有名な演劇評論家の名前を出し、対等に酒を飲み演劇論を戦わせているなどと自慢するような男なのだ。
しかし、学生時代、阿刀田の芝居を洋子と何度か見に行った。二人して楽屋に花を届けたこともあったのだ。同窓会の招待状は洋子と過ごした青春の思い出を呼び覚ました。いつの間にか懐かしさが心を満たしていた。そして呟いた。
「洋子はどうしているのだろう?阿刀田さん主催の会に来るなんてこと…ないか…」
あの自殺騒ぎや慰謝料問題の修羅場が遠い日の出来事となり、時間というフィルターを通して懐かしさだけが抽出されていた。自分のために命を投げ出そうとした健気な女のイメージだけが膨らんでゆく。思わず欠席の文字を消していた。
会場は中野サンプラザの小ホールで、50人ほどの先輩後輩達がグラス片手に談笑している。懐かしい顔を見出し近付こうとした矢先、阿刀田が目ざとく中条を見つけ、人を掻き分け寄ってきた。
「おい、久しぶりだな、新宿でばったり会って以来だろう。あの時は、確か子供が生まれ
るとか何とか言っていたと思ったが」
どうやら誰かと勘違いしているようだ。るり子を紹介しろとしつこく迫ったことなど、すっかり忘れているようだ。苦笑いしながら答えた。
「お久しぶりです。先輩、それ、誰かと間違えていません?確か先輩と会ったのは女房と結婚する前ですから、子供なんて生まれてなんかいませんよ。まあ、それはそうと、お元気そうじゃないですか。相変わらず派手にやってるんですか?」
「ああ、相変わらずだ。そうそう君にも紹介しておこう」
こう言うと、阿刀田は中条に覆い被さるように肩を組み中央へ進んでゆく。そこには白髪の老人が数人の紳士達に囲まれ談笑している。阿刀田はそこに強引に割って入った。その強引さは、ゆとりを失った人間の焦りに誘発されている、そう感じた。
恰幅のよい白髪の老紳士が迷惑げに顔を歪めた。阿刀田はかまわず口を開く。
「飯田先生、紹介いたします。こちらは東都大学演劇部55年卒の中条翔君です。飯田先生と同じように彼の御母堂は我が演劇部に多大な貢献をなさった方です。中条君、この方は我々の大先輩で演劇評論家の飯田久先生だ」
中条が挨拶すると、飯田先生はにこりと微笑んで挨拶を返した。そして先ほどからの相手と話しの続きに入っていった。中条はその場を離れたが、阿刀田はその輪の中に入ろうと必死で耳を傾けている。その額に玉の汗を浮かべているのが見えた。
その時、中条の背後から、男が耳打ちした。
「奴も必死だ。奴が立ち上げた劇団が潰れかけている。もう、お前は寄付の話しを持ちかけられたのか」
驚いて振り返ると忘れられない顔がそこにあった。学生時代の悪友、桜庭がそこに佇んでいた。目顔で挨拶し、なるほどと言った表情で何度も頷いた。
「いや、まだだ。だけど、俺にはそんな余裕などない。親父の遺産はお袋があらかた食いつぶした。狛江の土地も相続税が払えず物納だ。残ったのは300坪の土地と家だけだ。
とはいえ、そんな家の事情を話すのも癪だな」
「そんなことないよ。ない袖は振れんと言うべきだ。俺なんて50万小切手切らされた。阿刀田先輩には昔から泣かされっぱなしだ。でも、怒ると怖いからな」
「ああ、まったく。ところで樋口洋子はどうしているんだろう。お前聞いているか」
「ああ、横浜の金持ちのぼんぼんと結婚したって聞いている。一度横浜で会ったことがあるけど、とにかく派手な女だよ。上から下まで金ぴかで、こてこてだった。お前別れて正解だよ。あんなんじゃ、いくら稼いだって追付きゃしない」
二人の背後に佇んでいた後輩の上野が割って入った。
「いや、それがそのボンボンってのがかなりのやり手で、洋子に不審を抱いて私立探偵をつけたらしいんです。結局、彼女の浮気がばれて家を追い出されたってことですよ。その後、六本木のうちの店にもよく来たけど、相変わらず派手だった。あのスタイルだから目立ってましたよ」
上野はその店のオーナーだ。桜庭がにやにやしながら聞いた。
「もしかして、お前、洋子を食っちまったか、それとも食われちまったか、どっちかだろう?」
上野は真っ赤になって否定したが、桜庭はにやりと笑って意味深な視線を中条に送ってきた。中条は深い溜息とともに色褪せた青春のマドンナの思い出を屑籠に放り投げた。
結局、上野も寄付を迫られているという話しにうんざりして、中条は、阿刀田に気付かれぬよう会場を後にした。その日は桜庭等二人と六本木で飲み明かしたのだが、数日後、阿刀田から電話が入った。案の定寄付の話しだったが、やんわりとお断りした。
第三章 殺人
夫婦は、相変わらず二人目に恵まれなかった。しかも、勝が小学校3年になったばかりの頃、狭心症の発作に襲われ、入院すると言う事態に見舞われた。るり子はおろおろするばかりで、その精神的な脆弱さは中条を苛立たせた。
勝は半年後に退院出来たのだが心臓に爆弾を抱えていることに変わりはなく、ニトロの錠剤を肌身離さず持たせて、万が一の事態に備えさせた。か細い首に太めの金の鎖、そのなんとも言えぬアンバランスさが痛々しく、中条は思わず勝を抱きしめたものだ。
絵に描いたような幸せな家族に影を射した小さな不幸が、最悪の結末への序曲になろうとは夫婦ともども考えもしなかった。ただ、るり子は一人息子の不幸に、時に涙を流し、時に嘆息し、中条を更に落ち込ませるばかりで、家は暗く沈みがちだった。
そんな或る日曜日、中条は夕食前の犬の散歩に出かけた。発病前は、勝と二人で出かけたものだが、今は一人だ。門を出ると右に行くか左に行くか迷ったが、すぐに左の道を選んだ。勝が友達から貰った柴犬は大谷石の塀に沿ってぐいぐいと中条を引っ張ってゆく。
このまま行くと、最後にあの忌々しい住宅地に出てしまう。かつては中条家の裏庭で、そこにはブナ、楓、栗等の樹が雑然と植えられていて、子供の頃からの思いでの場所だが、今では6軒の住宅地になっている。中条は、左に折れススキの繁る川沿いの道を選んだ。