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夢盗奴

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「娘から貴方のことは聞いています。でもまさか、貴方があの子をこんなにまで追い詰めるなんて思いもしませんでした。今年のお盆休みには貴方を連れて来るって、私に紹介するって言っていたのに……」
ここで言葉を切ると、ハンカチを取り出し、涙を拭ったが、直後に、その赤く濁った瞳をまっすぐ中条に向け、きっとなって言い放った。
「この責任はきちっと取ってもらいますから、そのつもりで。さあ、帰って、さっさと帰ってください。貴方をあの子に会わすわけにはいかないわ。貴方の顔を見れば、あの子は情にほだされ、貴方を許してしまう。それほど貴方を愛していた、だから自殺をはかったのよ。いい、自殺よ、自殺。貴方のしたことは、婚約不履行よ」
「お母さん、それは違います。私は彼女を裏切ってなどいない。彼女の勘違いなんです。分かって下さい」
「お母さんなんて、気安く呼ばないでもらいたいわ、けがわらしい。貴方は、自分のやったことの責任を取るのよ、それしかあの子に対する贖罪の方法はないの、分かった。兎に角、帰って、帰ってちょうだい」
中条を押しのけるようにして憤然と歩いて行く。そして廊下の角を曲がって消えた。振りかえり、部屋のドアに視線を戻した。面会謝絶の文字は中条を拒否するように、そこに掲げられていた。

 とぼとぼと四谷の街をさ迷った。確かに、洋子に対する愛情は以前ほどではなくなっていた。彼女との関係に何か漠然とした不安が常に付きまとっていたからだ。だからと言って、別れ話を持ち出すほど冷え切っていたわけではない。
 中条は女たらしではないが、経験は豊富だった。初体験は中学3年のことで、先輩の女性に童貞を奪われた。大学で演劇をやっている頃など女からの誘いは引きも切らず、女に苦労したことはない。
 そんな女遊びも洋子に出会ってからぴたりと止めた。洋子ほどの女はこの世にいないと思ったからだ。精神的にも、肉体的にもである。その精神的な部分に不安を覚えたとはいえ、愛し合う喜びは何物にも代えがたかったのである。
 しかし、何故、洋子が中条の見合のことを知ったのか不思議だった。それは母親の友人の紹介で、母親に言わせると、曖昧に返事をしているうちに、のっぴきならない状態になってしまったらしい。母親に会うだけ会って欲しいと懇願されたのだ。
 その見合いは新宿のホテルで行われた。中条は堅苦しい席を早々に立ち、見合い相手を新宿御苑に連れ出した。そして正直に打ち明けた。婚約者がいること、母親が結婚に反対していることも。相手は一瞬顔を曇らせたが、深い溜息とともに笑顔を返してきたのだ。
 ただそれだけのことだった。裏切ったわけではない。しかし、洋子は中条の秘密を嗅ぎ付け、そして絶望のあまり左手首を切った。もしかしたら、新宿を歩いていた二人の姿を偶然見かけ、その日の晩、中条に電話を掛けてきたのかもしれない。洋子の涙声が蘇る。
「私、知ってるの。貴方がお見合いをしたことを。私に黙って。まるで、だまし討ちじゃない。幾らなんでも酷過ぎる。貴方を後悔させてやるわ。このまま死んでゆくの。貴方の声を聞きながら…」
慌ててアパートに駆けつけると、既に救急車で運ばれた後だった。
ふと気が付くと信濃町駅前に出ていた。病院から、どこをどう歩いてきたのか覚えていない。深い後悔の念に胸が締め付けられた。見合いの事情を打ち明けておくべきだったのかもしれない。もう、終わりだと思うと胸が疼く。切ない思いが心に風穴を開けた。

 洋子に対する未練も、洋子の母親が要求してきた法外な慰謝料の額を見るに及び、ため息とともに徐々にではあるが薄れていった。途方もない金額だった。通常の十数倍、3000万円が要求されていたのだ。思わず、「性悪女」という言葉が甦った。
 最終的には示談が成立し、1000万円が支払らわれた。母親は小切手を見せ、中条にこう言った。
「高い授業料だったわね。でも、これであの娘と手が切れるのなら払う価値はあるわ。あの娘は貴方に相応しくなかったから。最初から分かっていたの。計算高いのよ、親子揃って」
「母さん、そんな言い方はよせよ。彼女は自殺するほど思いつめていたんだ。ましてその責任はこっちにあったんだから」
「翔ちゃん。私、彼女が担ぎ込まれた病院に行って確かめて来たの。彼女の傷はたいしたことはなかったって、先生がにやにやしながらそう仰っていたわ」
「だって、面会謝絶の張り紙があったじゃないか」
「あのお母さんが貼ったんじゃないかしら。そんな気がする」
「それじゃあ、お母さんは、あれが狂言だとでも言うの、そんなことあり得ないよ。確かに迷い傷程度であったとしても、彼女が死のうとした事実にかわりはないんだから」

 中条が結婚したのはそれから2年ほどしてからだ。相手は例の見合い相手だった。二人はまるで運命の糸に操られるように再会したのだ。縁は異なもの味なもの、というが、二人の再会劇はまさにこの言葉通りである。
 その日、中条は下請けの部品製造会社を訪ねた。応接に通され座っていると、一人の事務員がお茶を運んできたのだが、その顔に見覚えがあった。一瞬、二人は見詰めあった。その女性が「あらっ」と両目を丸くし、お盆を胸に押し抱いた。中条もあの見合い相手だ
と思い当たり、声を詰まらせつつ、言葉を発した。
「た、確か、山下るり子さん……でしたよね」
「ええ、でも、まさか、こんな風にまたお会いするんて、不思議な縁ですね」
「全くです。僕も驚きました。それで、あの、その後……」
るり子がにこりとして言った。
「あれ以来、すっかり男性不信に陥って独身を通してます。一年半も」
ぷっと吹き出し、中条を見上げた笑顔が可愛いらしかった。中条も釣られて笑った。
 二人の会話はノックの音に遮られ、るり子はそそくさと出ていったが、ドアを閉める時、
中条にちらりと笑みを見せた。
 商談が済んで、総務のカウンター越しにるり子を探したが見当たらない。見送ろうとする担当者と歩きながら後ろ髪引かれる思いでエレベーターに乗り込んだ。しかし、このまま会社に戻る気にはならなかった。中条は決意を固めた。
 1階に着くと早速受付嬢に総務の山下るり子との面会を申し入れた。受付嬢の声が響く。
「お客様が下にお見えですが、11階にお通しして宜しいですか。えっ、ロビーでお待ち頂くのですね、はい、はい、分かりました」
受付嬢は受話器を置いた。
「山下はロビーに下りてくるそうです。そちらでお掛けになってお待ち下さい」
しばらくして5基あるエレベータのうち一基が11階で止った。そしてゆっくりと降りてくる。彼女が乗っているに違いない。もし、一度も止らなければ、自分たちは結ばれる。
そう思った。そして、エレベーターは一気にロビーまで降りてきた。ドアが開かれ、微笑むるり子がそこにいた。
 こうして二人は交際するようになり、半年後には結婚した。そして一年後には勝が生まれ、二年後には孫に見送られ母が逝った。小さなマンションから親子三人には広すぎる家に引っ越してきたのはそれから間もなくのことだ。
 幸せに暮らしていた。広い敷地に瀟洒な家、美人妻に可愛い子供。休日には日がな一日芝生で勝と戯れ、疲れると木陰で昼寝をした。二人目が出来ないのが唯一の不満といえば
作品名:夢盗奴 作家名:安藤 淳