夢盗奴
「荻窪まで」と言うとドアを閉めた。舞が窓から顔を覗かせている。悲しげな目が中条に注がれている。その顔がゆっくりと遠ざかる。中条はタクシーのテイルランプをいつまでも見詰め続けた。
翌日、舞は休んだが、翌々日には元気に出勤してきた。いつもと変わらぬ笑顔で中条に笑いかけてくる。中条もにこりと笑ってそれに応えた。その日、舞から内線電話がかかっ
てきた。舞の忍びやかな声が響く。
「見直しちゃったわ。主任って、どこまでも誠実なのね。あらためて惚れ直しちゃった。
私、諦めない」
「そう言うな。僕は婚約者を傷つけたくない。それを分かって欲しい」
中条は深いため息をついた。舞のふふふっというひそめくような笑い声が耳に残った。
それから一月後のことだ。夕刻、一週間ほど会社を休んでいた舞から電話が入った。今、
駅前ビル5階の喫茶店に居るという。
事務所がひしめくフロアーの一角にその喫茶店はあった。入ってゆくと、舞は奥のボックス席に思いつめたような顔で座っている。溌剌とした新人がやつれ果て、目の下には隈さえ見受けられる。中条は座るなり声をかけた。
「一週間も休んでいるから心配したぞ。恵美さんに頼んで、様子を見てきてもらおうと思っていたところだ。風邪だと言っていたけど、もう大丈夫なのか?」
そんな中条の質問など聞こえなかったかのように、舞が堰を切ったように話し出す。
「ごめんなさい、こんなところに呼び出したりして。でもこうするより仕方なかったの。というのは、どうしても話しておきたいことがあるの。この話を聞いたらきっと主任も目が覚めると思う。主任はあの人の本当の姿が見えていないの。お願い聞いて。ねえ、聞いてちょうだい」
中条は憮然として答えた。
「ああ、聞くだけは聞く」
舞は洋子のことを言っているのだ。まさか、舞は洋子と接触したのだろうか。不安が胸をよぎった。中条の迷惑顔に舞はたじろぎもせず話しを続ける。
「あの人は異常よ。この一週間、私がどれほど怖い思いをしたか分かる。あの洋子さんが私に何をしたと思う?」
やはり舞は洋子と接触していた。驚きが中条の胸をざわつかせた。まさかそこまでするとは思ってもみなかった。
「そんなことは知らない。僕にとって問題なのは、僕の意思を少しも尊重してくれない君の行動の方だ。その気はないと最初に断ったはずだ。本当を言えば迷惑している」
「分かったわ、もう私は主任のこと、諦める。好きで、好きでどうしようもなかった。でも、もう、諦めるしかないもの」
そう言うと両手で顔を覆ってわっと泣き出した。そして、ハンカチで涙を拭きながら話し始めた。
「あの人が怖いの。怖くて怖くてしょうがないの。私だって最初は少しもひるまなかった。呼び出されて文句言われたけど何ともなかった。ほっぺたをひっぱたかれたけど、二倍にして返したわ。でも、……、思い出しただけで身震いしちゃう」
「いったい彼女は君に何をしたというんだ」
それには答えず、舞は話し続ける。
「あの時、そう、頬を叩き返した時のことよ。彼女の顔が凄かったの。あれほど憎しみに満ちた顔を私は見たことないわ。口から血を流して、その血をぺろりと舐めた。そして私を睨みつけていたの。怖くて体が震えたわ」
中条はそのあまりに大げさな言葉と表情に苦笑いを浮かべた。すると、舞が血相を変えて叫んだ。
「本当なの、本当なんだから、信じて。私はこの世が一瞬にして地獄に変わっちゃったんじゃないかと思ったくらいよ。本当なの、ねえ、信じて」
声は震え、その目には涙を湛えている。心底怯えているのだ。ふと、老人の言葉が脳裏をかすめ、冷たい振動が中条の背筋を駆け抜けた。中条が重い口を開いた。
「いったい、彼女は君に何をしたんだ」
「それが、とんでもないことよ。あそこまでやる人だとは思いもしなかった」
ここで一呼吸間をあけて、話し出そうとした正にその時、舞の目は一瞬にして凍り付いた。大きく見開かれた瞳は一点を凝視している。中条は振り返った。そこにはお茶目な笑みを浮かべ、手を小刻みに振っている洋子がいた。
ガタッという音に続き、グラスが倒れコーヒーがテーブルにこぼれた。舞が我を忘れて立ち上がった拍子に、テーブルにぶつかったのだ。舞はそのまま駆け出していた。洋子を避け、入り口を目指した。何度か躓いて倒れそうになったが漸く店を出て行った。
洋子は口を押さえて笑っている。ウエイターがテーブルを整え、何事もなかったように立ち去った。洋子が席に近付いてくる。洋子は二人がこの喫茶店にいることをどうして知っていたのか、まさか舞をつけていた?中条の心に暗い疑念が浮かぶ。
洋子が席に着いた。にこにこといつもの可愛い笑みを浮かべている。ぞくぞくという恐怖が中条の背筋を登ってゆく。舞に取り憑いていた恐怖のウイルスが中条に感染したのか
?あの老人の言葉が脳裏に蘇った。『洋子は性悪な女なんだ』
「何故この喫茶店が分かったんだ?」
「簡単よ、野田さん、貴方の隣の同僚。この間、一緒に飲んだじゃない。その野田さんが、貴方の言葉を覚えていたの。『えっ、交通会館の5階、そんな所に喫茶店なんてあったっけ』これ貴方が言った言葉よ。だからここに来たの。そしたら彼女がいるじゃない。驚いちゃった」
なるほど、納得がいく。確かに、舞の電話にそう答えて切ったのだ。
「彼女は君を怖がっていたが、君は彼女に何かしたのか」
洋子は見る見る表情を曇らせ、終いには目に涙を滲ませた。今にも泣きそうな顔を俯かせ、ぽつりぽつり話し始めた。
「冗談じゃないわ。何かしたのは彼女の方よ。執拗に無言電話を繰り返し、しまいには会社にまで電話してきて、あることないこと言いふらして、全く信じられない。彼女、貴方に夢中なのよ。貴方に対する執着が彼女を狂わしたのかもしれない」
中条はウエイターが入れてくれた二杯目のコーヒーを口に含んだ。苦い。中条は心の内で一人呟いた。本当だろうか、舞が常軌を逸したというのは?確かに舞の様子は尋常ではなかった。言われてみればそんな気もしてくる。洋子の言葉が続く。
「あの人、どうかしてるわ。何度呼び出されたか分からない。その度に、貴方と別れろってしつこく迫るの。今の会社にいられなくしてやるって。最近では上司も私に不審な視線を向けている」
ここで言葉を切った。そして涙声で言った。
「あの人が、私のこを、誰とでも寝るって、尻軽な女だって、会社の同僚に言いふらしたのよ」
洋子は突然テーブルに突っ伏した。その肩が小刻みに震えている。
何が真実なのか分からなくなった。恐怖に顔を歪ませる舞も、目の前で泣き伏し肩を振るわせる洋子も、ともに演技しているとは思えない。しかし、明らかにどちらかが嘘をいっている。結局、真実は分からずじまいで、二人の交際もずるずると続いていった。
第二章 別離
病院に駆け付けると洋子の病室のドアには面会謝絶の張り紙があった。呆然と立ち尽くしていると、ドアが開き、白髪混じりの女性が洗物を持って出てきた。出会いがしら、二人は互いに見詰め合った。女の顔がにわかに強張った。
「あなた、中条翔さんじゃありません?」
「は、はい」