夢盗奴
洋子との出会いは正に偶然が与えてくれた賜物と言ってよい。中条は大学の演劇部で演出を手がけていたが、公演の一月前に主役が下らない理由で降りてしまったのだ。主催者である中条達は焦って、急ぎ一般公募のオーディションを行った。
そこに現れたのが洋子だった。審査委員全員で洋子を選んだ。もしかしたら、その時、全員が洋子に惚れたのかもしれない。洋子は純日本的な美人タイプだが、そのスタイルは白人のそれだったし、皆、その豊かな胸に視線を奪われたのも事実だ。
その洋子の心を最初に捕らえたのが、演出を手がける中条だったのは、或は役得ともいえるが、中条もなかなか魅力的な男であることは誰もが認めるだろう。二人は急接近し愛し合うようになった。そんななか、中条はあの老人と出くわしたのだ。
喫茶店に戻ると、洋子は唇をとがらせている。
「随分待たせたじゃない、すぐ戻るって言ったのに」
「ご免、ご免、ちょっとそこで友達に会って話しこんじゃったんだ」
中条は頭を掻いて、ちらりと洋子の顔を覗った。老人の言った「性悪女・洋子を殺す」と
いう言葉を思い出したのだ。きらきら光る瞳が悪戯っぽく動く。見詰められるとその瞳に吸い込まれそうになる。中条は、微笑みを返した途端、老人の言葉を忘れた。
中条は大学を卒業すると大手自動車メーカーに勤めた。卒業間際まで、演劇の道を模索していたのだが、その道を選んだクラブの先輩諸氏の惨めな生活を見るにつけ、夢のみで生きてゆくことに自信を喪失していた。
散々迷った挙句、最終的には、母親のコネの効く就職先に決めたのだ。洋子は諸手を上げて喜んだ。洋子にしてみれば、結婚を前提に付き合ってきたはずなのに、演劇の道に進まれては、それが遠のくと思っていたようだ。
一年後、中条は洋子を家に招き母親に紹介した。結婚を前提に付き合っていることを告げるためだ。しかし、洋子の帰った後、母親の一言は意外なものだった。
「翔ちゃん、私はこの結婚に賛成できないわ。別に年上だからというわけじゃないの。何故か分からないけど、最初に彼女を舞台で見たとき何か胸騒ぎがしたの。彼女の瞳の底にある冷たさみたいなもの、それが胸騒ぎの原因だと思う」
静かに言う母親の言葉に思わず背筋がさわさわと震えた。あの老人の言葉をふと思い出したのだ。しかし、この3年の付き合いで、洋子の性格は知り尽くしていた。純粋で繊細、正義感が強く、こうと決めたら意志は固い。意外に涙もろいところもある。
性悪女の影はどこにも見出せなかった。しかし、見出せなかったからこそ、母親の言葉に衝撃を受けた。老人の言葉など笑い飛ばしていた中条だが、母親の発したこの言葉は記憶の片隅に太文字で刻まれたことは確かだ。
社会人2年目の春、同じ課に配属された新人の片桐舞が猛烈にモーションをかけてきた。中条に婚約者がいることを知っての行動だった。何故なら、洋子はしょっちゅう会社に電話を掛けてきたし、中条もそれが婚約者だということを隠したりしなかったからだ。
舞は、男性社員達の一躍アイドルになるほど可憐な女性だった。そのやや大きめでふくよかな唇は、どこかエロチックな印象を与えるが、子供のような無邪気な一面を併せ持ち、何とも不思議なフェロモンを発散させていた。
その舞からモーションを掛けられたのだから、中条も悪い気はしなかったが、洋子を裏切る気はなかった。しかし、舞の積極性は徐々に中条の心を開いていった。そして或ることをきっかけに、中条は一歩舞に近づくことになる。
それは、中条が舞ともう一人の部下に、急遽残業を頼んだ時に始まる。翌日の会議資料が間に合いそうもなかったのである。これに舞が唇を尖らせて抗議した。
「主任、残業なら残業と前もって言ってくれなきゃ困ります。だって今日、叔父が、この
先の四丁目に勤めているんですけど、私と恵美にステーキをご馳走してくれることになっ
ているの。ねえ、恵美」
恵美が眉を上げにこにこしながらそれに応える。叔父さんの話は怪しいとは思ったが、ここは下出にでるしかない。
「そう言わず、頼むよ。この埋め合わせはするから」
舞は、この言葉を聞いて目を輝かせた。
「本当、主任、本当なんですね。じゃあ、その店、今度予約してもいいかしら。今週の金曜日。ねえ、恵美、それだったら今日の叔父さんのお誘い、断ってもいいわよねえ」
恵美の反応は最初と同じで、その笑いにはどこか困惑の色が見え隠れする。
「よし、分かった。予約を入れておいてくれ。僕が奢る。それじゃいいね、残業してくれるんだね」
「勿論よ、さあ、さっさとかたずけちゃいましょう」
これを聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたのだが、何故か胸騒ぎがしてならなかった。金曜日、恐らく恵美は来ない。舞と二人だけのデートになる。婚約者を裏切る行為に足を一歩踏み出したような気がして心が騒いだ。
金曜の夜、店に入ってゆくと、案の定、舞が一人でテーブルに着いて待っている。近づく中条にいたずらっぽく笑う舞に対し、微笑みで応えている自分を意識しながらわざとらしく声を掛けた。
「あれ、恵美さんは」
「恵美は急に都合が悪くなったんだって」
こう言うとぺろっと舌を出した。この瞬間、中条は、心の底から舞を抱きしめたいと思った。いとおしいと感じたのだ。しかし、その感情を押し殺した。
「最初から、その予定だったんじゃないの。叔父さんの話もでまかせなんだろう」
「ご免なさい。だってちっとも誘ってくれないんですもの。だから……こうするしかなか
ったの」
「でも、君も知っての通り、僕には婚約者がいる。そんな僕が他の人とデートするわけに
はいかないんだ」
舞はうつむいて唇を噛んだ。下から見上げるようにしてぽつりと言った。
「でも、好きなんだもん」
中条はごくりと甘酸っぱい唾を飲み込んだ。あまりの可愛さに胸が震えた。揺れ動く心、疼く下半身、いかんともしがたい。その思いを気取られぬよう、きっぱりと言った。
「まあ、いい、兎に角、注文しよう」
食事をしながらのたわいない話が続く。ステーキは確かに美味いのだろうが、味などさっぱり感じなかった。口の中がからからに乾いてビールを何杯も頼んだ。思いのほか酔ってきている。酔って早めに良心を捨ててしまおうとしているかのようだ。
食事が終わりに近づいた。これからどうするかが問題だった。これで勘定をすませ、「それじゃあ、また明日」と言えば全てが終わる。しかし中条の体の芯が疼き、いとおしいという思いは抑えがたく、このまま終わらせることは不可能に思えた。
沈黙が二人を包んでいたが、暗黙の了解は絡み合う二人の視線に込められていた。中条が席を立ち、レジで清算を済ませていると、後ろを舞がすり抜け、ドアの外に消えた。レジで渡されたレシートをくちゃくちゃに握りつぶし、中条がそれに続く。
タクシーがゆっくりとブレーキをかけ止まった。その時、中条の脳裏に洋子の悲しむ顔が浮かんだ。タクシーに乗り込もうとする寸前だった。ドアに左手をかけ、自らの動きを封じた。その手に力がこもった。「くそっ」と呟き、意を決した。
体を開いて、戸惑う舞の背中に手を回し車に押し込んだ。一万円札を運転手に握らせ、