夢盗奴
「洋子さんは昼の仕事の後、夜、お弁当屋さんに勤めていた。貴方たちは、夜、帰宅する洋子さんのミニバイクに後から車を追突させた。幸い洋子さんはかすり傷で済んだけど、でも、洋子さんは、その時、貴方たち二人の顔をバックミラーで見ているのよ」
じりじりとした焦りが、中条の心を追い詰めてゆく。
『あいつが、悪いんだ。なかなか離婚届に判を押さなかったあいつが悪いんだ』
それは中条にとって自明の理なのだ。あまりにも洋子は頑なになりすぎていた。
「翔ちゃんの会社はとっくの昔に破綻していた。舞さんとの生活にはお金が必要だった。
だから洋子さんに死亡保険を掛けたわけね」
まさかそこまで知っていようとは。焦りは胸を圧迫して息も出来ない。逃げ道はなくなっていた。思わず叫んでいた。
『それもこれも、お前が悪いんだ。お前は実印を隠して100坪の土地を売ろうとしなかった。お前が、意地を張らなければ、俺だって、そこまで思いつめはしなかった』
母親は優しくその言葉を受け止めた。
「はいはい、悪うございました。翔ちゃんが、そこまで思いつめていたとは気付きもしなかったわ。それより、翔ちゃん、そろそろ自分が死んだことを認めなさい」
『ああ、そうだ。俺は死んだ。あのクソ女にあの土地を残して死んだと思うと、悔しくて、悔しく死に切れなかった』
「それは違うわ。洋子さんは貴方のお葬式が済むと、家を出たの。厭な思い出ばかりのあの家から逃れたかったんだと思う。葬式は盛大にあげたわ。懐かしい顔ぶれが揃った。上野さん、桜庭さん、そうそう阿刀田さんも来てくれた。阿刀田さん覚えている?」
『忘れるわけがないだろう。あいつにどれだけ金をせびられたと思っているんだ。あいつは俺にとって疫病神だった』
「そんなことないわよ、確かに私が二度ばかり用立てたけど、ちゃんと返してもらったもの。役者では挫折したようだけど、実業家としては立派に成功された。そうそう、お葬式の時に仰っていたけど、阿刀田さんの奥さん、翔ちゃんが阿刀田さんに紹介したんですって?」
『ああ、そうだ。散々遊んで飽きたから、女に縁のない阿刀田先輩にくれてやった』
中条は悔しさで顔を歪めた。るり子と新宿でデートしていた時、阿刀田先輩と偶然出会ってしまった。るり子は阿刀田の文学座の研修生という肩書きにころっと参ってしまったのだ。二人が付き合いだしたと知った時、どれほど阿刀田を憎んだことか。
二人を付け回し、行く先々で嫌がらせをした。ところが、あの日、二人がホテルに消えた後、るり子の名前と電話番号、そして「誰とでも寝ます」と文字を大書きした紙を塀に貼ろうとしていたその時、ホテルの入り口から二人がぬっと現れたのだ。軽蔑しきった二人の視線は、中条のプライドをずたずたにした。
「翔ちゃん、ようやく思い出したようね、なにもかも。昔を思い出して、良い子だった昔を。父さんが早くに亡くなったから、母さんは貴方を甘やかし過ぎた。だから翔ちゃんは、こんな子に育ってしまった。悪いのはみんな私なの」
中条は、老母の顔を盗み見た。暴力に怯える弱弱しい母親の姿はそこにはない。どこか毅然として自信に溢れている。
「翔ちゃんが舞さんと一緒に事故で死んだ後、洋子さんは家を出た。とうとう私は一人ぽっちになった。でも、そうなって初めて分かったの」
中条の目に涙が滲んだ。そうだ、舞も死んだ。お袋の実印を盗み出し、金を手に入れようとした矢先だった。かわいそうな舞、そして俺。しかし、今は、この地獄から抜け出せるチャンスかもしれない。中条には独り善がりとしか思えない母親の言葉は続く。
「結局、全ては自分に返ってくるってこと。甘やかしたことも、翔ちゃんの暴力に屈して言いなりになってしまったことも、借金をして後になってその付けが回ってくるように自分に返ってくるってこと」
母親は遠くを見るような目をして微笑んだ。
「もし、翔ちゃんに我慢するということを教えていたら、翔ちゃんは家庭内暴力に走ることもなかった。それが出来たら、どんなに良かったか。でも、今となっては後の祭りね。全ては私の犯した過ちなの。それがすべて私に返ってきただけ」
母親の言葉は左の耳から右の耳に抜けていった。それより、中条は、今、重大な岐路に立たされていることを意識していた。どのくらいここに縛り付けられていたのか見当もつかないが、お袋の老けようから見て、10年以上経っているような気がする。
じめじめした暗黒の世界、人の夢の中でしか生きられない人生、ここから抜け出さなければならない。藁にもすがる思いで、中条は母親に話しかけた。その声は上ずっていた。
「母さん、俺はどうしたらいいの。俺はずっとここで動かずにいた。誘う奴がいたけど無視して追い返した。だから、俺はここしか知らないんだ」
「心配いらないの。私が連れてってあげるから。昨日、私、死んだって言ったでしょう。そしたら、迎えに来た父さんが、翔ちゃんも連れてこいって、ここを教えてくれたの。だから心配しないで。さあ、涙を拭いて」
中条は母親にしがみついた。その胸に頬を押し付け、子供のように甘えた。
「僕もあっちに行けるの。僕も一緒に連れてってくれるの。お父さんのところへ」
「お父さんと一緒という訳にはいかないの、私たちは」
「何故、何故父さんと一緒じゃないの」
「だって、翔ちゃんは罪を犯したのよ。洋子さんを殺そうとしたでしょう。前科のある人は、無いひととはちょっと違うあの世に行くの」
「も、もしかして、ぼ、僕は地獄にゆくの」
「馬鹿ね、あの世に地獄なんてないわ。翔ちゃんが、今まで居た所が地獄じゃない。地獄は常に人間が作るものなの。翔ちゃんの地獄はまだいい方よ。お父さんが言うにはもっと凄い地獄があるんですって」
「でも、お母さんは、罪を犯した訳じゃないんでしょう。何でお父さんの所に行けないの」
母親は一瞬たじろいだが、気を取り直し答えた。
「だって、翔ちゃんだけじゃ寂しいでしょう。だから私は翔ちゃんと一緒にあの世に行くことにたの。そうよ、もう一度、やり直す時がくるまで、一緒よ、心配しないで」
この言葉を聞いて、中条は赤子のように母親に甘えて抱きついた。中条はほっと安堵のた
め息をつき、胸を撫で下ろした。
この時、私は、あのことだけは、息子に漏らすまいと心に決めた。もし知られれば、あの世へ行ったとしてもそこが地獄と化すのは目に見えている。この世で地獄を味わったのだから、せめてあの世では心安らかに暮らしたい。
翔ちゃんには悪いけど、私は洋子さんにあの家を残すことにした。弁護士の先生に相談して遺言書を書いたの。あの百坪の土地と家は洋子さんが相続することになる。それこそ、洋子さんは吃驚すると思うけど、私はずっとそうしようと思ってきた。
洋子さんは私のことを大事に思い、尽くしてもくれた。翔ちゃんが死んで、家を出ると言い出した時はちょっと寂しかったけど、納得するしかなかった。翔ちゃんの思い出の残る家にはいられなかったのだ。何故なら、翔ちゃんを殺したのは洋子さんなのだから。