夢盗奴
洋子さんは追突事故直後、離婚を決意していた。その決意を翻させたのは私だ。だって、本当に、洋子さんがあの家に来てからというもの、何もかもが変わった。翔ちゃんの暴力は洋子さんに向かった。私を庇ったからだ。それでも洋子さんは、言うべきことをはっきりと言って、翔ちゃんを諌め続けた。
だから、あの時は本当に必死だった。離婚を思い止めさせなければならないと思った。そして、とうとう私の本心を伝える決心をした。そう、こう言って引き止めたの。「二人で、翔ちゃんを何とかしましょう」って。そしたら洋子さんはきょとんとして聞いた。
「二人で翔ちゃんを何とかするって、どういう意味?お母さん、それってどういうことなの?」
私は何も答えなかった。言わずもがなのことだと思ったから。私はじっと洋子さんの目を見ていただけ。私は何も指示なんかしていない。洋子さんにしてみれば殺される前に殺す。私は何もかも失う前に息子に死んでもらいたい。これよ。
そして洋子さんが動き出した。深夜、パソコンに向かうことが多くなった。恐らくインターネットとかいうやつで、何かを調べていたのだ。翔ちゃんの車に何か細工するつもりみたい。私はぞくぞくという興奮を味わった。そして心から声援をおくったものだ。
だから翔ちゃんが実印を持ち出したと分かって、すぐさま洋子さんに知らせた。何とかして欲しいと懇願すると、洋子さんは、すぐに出かけた。二人の愛の巣に向かったのだ。私はいらいらしながら待った。いても立ってもいられなかった。洋子さんが帰ってきたのは夜中過ぎだ。疲れきっていた。私はかまわず聞いた。
「上手くいったの。ねえ、上手くいった?」
洋子さんは深いため息をついて答えた。
「明日にならなければ、それは分からないわ。ブレーキがきかなくなって事故は必ず起きる。でもその事故で彼が死ぬとは限らないの。それは運命よ。彼が死ぬか、それとも生きるか。つまり、私たちが勝つか、それとも負けるか、それを知っているのは神様だけ」
それでは困るの、だから私は必死で食い下がった。
「ねえ、もし生きていたらどうなるの。この家はどうなっちゃうの、ねえ、何とかして、ねえ、何とかしてちょうだい。お願いよ」
洋子さんは自信たっぷりに微笑んだ。そして静かに答えたわ。
「大丈夫、お母さん。何とかする。次の手も考えてあるの。もし、今日のことが駄目だったら次の手よ。兎に角、早めに準備にかからないと」
「そうよ、急がないと、あの子が残っている100坪の土地も売ってしまう。そうなったらこの家を追い出されてしまうわ。だから、今度こそ、確実に……」
洋子さんはにこりと微笑んだ。
「貴方の息子の息を止めろと言いたいの?」
私は自分の言おうとした言葉に戦慄したが、割り切るしかない。そして強張った顔でぎこちなく微笑んだ。洋子さんには笑ったようには見えなかっただろう。言いたいことは分かっているのに、洋子さんも意地悪だ。そしてやぶれかぶれで言ってやったんだ。
「そうよ、そう言いたかったのよ。貴女だって同じ思いでしょう。この土地を売ったお金だって、いつか使い切ってしまう。そしてら、あの時みたいに、また貴女が狙われる。保険はまだ掛かったままよ。だから、そうなる前に、今度こそ、確実に翔ちゃんの息の根を止めるのよ」
洋子さんはゆっくりと首を縦に振った。そして、きっとなって居間の窓から真っ暗な庭先を睨んでいた。窓ガラスに洋子さんの顔が映し出された。その顔が奇妙に歪んだ。笑っているように思えた。
私はあの時の洋子さんの顔が頭から離れない。ぞっとしたのを覚えている。でも、その顔は翔ちゃんも見ているはずよ。そうあの時よ。あの時の顔にそっくり。翔ちゃんの作り話、勝が洋子さん達に誘拐されて死んじゃう話よ。翔ちゃんは洋子さんに聞いたわ。
「お前は知っていたんじゃないか。勝の病気のことも、薬のことも知っていたんじゃないのか」って。洋子さんは、顔を奇妙に歪めて笑った。そして答えた。「ええ、知っていたわ。だから薬を捨てたのよ」ってね。あの時の歪んだ顔がそれよ。復讐心は人の心を鬼に変えるの。
翔ちゃんは復讐に凝り固まって、洋子さんを酷薄な人間として夢の中で思い描いた。でも、私の必死の思いは洋子さんの心の深層に眠っていたそんな一面を引き出したのよ。人間はどんな人間にもなれる。置かれた状況によってどうにでも変わるの。
結局、翔ちゃんは酔っ払った挙句、首都高の壁に激突してくれた。病院で息を引き取った時、私たちは抱き合って泣いた。それまでの緊張が一挙に氷解した安堵感、日常的な暴力から逃れられたという解放感が二人を包んでいた。何とも言えない瞬間だった。
もっとも、私達の涙に誘われて、もらい泣きしている看護婦さんたちには、思わず二人して苦笑いしてしまった。確かに嫁姑が抱き合って号泣しているのを見たら、誰だって涙腺は緩んでしまうものね、まったく笑ってしまったわ。
さてと、世迷言はこれくらいにして、そろそろあの世に向かおうかね。時間も限られていることだし。どっこいしょと。だけど、洋子さん、幸せそうだったな。最後のお別れだから会いに行ってきたけど、彼女、再婚して子供まで出来て。
胸元をみると、翔は安心しきって寝息をたてている。よほど疲れているのだろう。でも、私にとってもあの世は初めて。いったいあの世ってどんな所だろう。父さんはあの世もこの世と大差ないって言っていたけど、ちょっと心配。
そうそう、あの世に行く途中に凄い地獄があるから近づくなとも言っていた。そうは言っても、自分は覗いてきたみたい。私も興味あるから覗いて行こうかしら。この世の見納めに。そう、地獄って、この世の側に在るんですって。この世の地続きみたいな所にぽつりぽつりと。ここもその地獄のひとつ。
さあ、翔、だっこしたまま安住の地に連れてってあげる。この狭っくるしい地獄からお前を救ってやったのは母さんだよ。よく覚えておいて、あの世では孝行しておくれよ。ふっふっふ、さあ出発。
この時、「ぎゃっ」という息子の悲鳴を聞いた。母親は慌てて胸に抱いた息子を見た。しかしその輪郭が失われつつある。その中心に必死の形相で自分を見つめる息子の顔があった。その顔さえ曖昧模糊となって消えかけている。母親が叫んだ。
「翔ちゃん、翔ちゃん、どうしたの。ねえ、何処に行くの。何処にも行かないで、お願い。」
すっと胸の感覚が消えた。母親は悲鳴をあげて立ち上がった。辺りをきょろきょろ見回し、そして駆け出した。あちこちをさ迷いながら必死で時間の限り探し回ったが、息子をあの世に連れて行くことは出来なかったのである。