夢盗奴
あのどこからともなく聞こえて来る声が再び響き渡る。中条の心が何故かこの声に反応し、打ち震えている。前世の記憶がじわじわと脳裏に浮かび上がり、勝が洋子と阿刀田に殺された時の悲しみが甦ったのだ。心がその言葉に共鳴する。そして、
『今度は、勝に有名人の血を引いていると自慢する女。息子は苦しみながらも、俺の愛情に応えようとした。だからあの女に怒りの鉄槌を振り下ろしたのだ』
またしてもあの声が響く。この言葉は、まさに中条の今の悲しみと怒り炸裂させるに十分すぎるほどの起爆剤となって、中条の脳に働きかけた。中条の声が響き渡った。
『思い知ったか、洋子、お前は殺されて当たり前だったんだ。勝は、こんなにも苦しんだ。
その代償としての死は、お前自身が引き寄せたんだ。全てお前のせいなんだ』
中条のその怒鳴り声はまさしく、何処からともなく聞こえていたあの声そのものだった。前世の恨みを含むこの怒気に中条は何の疑念も抱かない。怒り心頭に発し、ただその爆発に身を委ねているだけだ。
こうして憤怒が頂点に達したとき、中条は、めくるめくような恍惚に満たされ、波のように打ち寄せるエクスタシーを味わっていた。背徳のエクスタシー、殺して恨みを晴らした時に上げる勝利の雄叫びだったのだ。中条は、その残滓まで味わい尽くし、ふーとため息をつく。悦楽の常として、このエクスタシーも一瞬だ。
恍惚の時はいつも瞬時に終わってしまう。くだらないジョークで皆と馬鹿笑いした後に訪れる静寂に似て、このエクスタシーには虚しさが伴う。或いはそれもやむを得ないのかもしれない。何故なら、これは全て夢の中の出来事なのだから。
ふと、我に返ると部屋は静寂が支配していた。急激に萎んでゆく興奮。中条は勝の気配を探った。人の気配はある。しかし、それは勝のそれではない。そうだ、勝の話はもう既に終わったのだ。
中条は舌打ちし、薄目を開けて、その狂った婆さんの姿を見上げた。また来やがった。ふんと鼻をならし睨みつけた。老婆は椅子に腰掛けて話し始める。
「翔ちゃん。この前は、何処まで話したっけ。そうそう、先月は、翔ちゃんが洋子さんと結婚する前までだったわね。そう、洋子さんは、本当に心の優しい人だった」
『うるさい、俺の世界の邪魔をするな。死ね、糞ババア、貴様の顔など見たくない』
中条がいくらわめこうが叫ぼうが、婆さんは喋りつづける。そう、中条は最初からそれが誰なのか分かっていた。婆さんは中条の母親だった。
「翔ちゃんは、結婚式は帝国ホテルじゃなきゃ厭だって、暴れた。どんなに謝っても許してくれなかった。翔ちゃんの暴力にはなっれっこになっていたけど、あの時は死ぬかと思った。髪をつかまれ家中引きずりまわされたんだから」
『そんなことしてない。俺はそんな男じゃない』
「それに、大学の演劇部の寄付は、ほとほと参ったわ。桜庭や上野には負けたくないって、怒鳴った。お金がないと言うと土地を売れってすごんだ。思い出がいっぱいの土地を手放すのは、本当に辛かったわ。でも翔ちゃんの暴力には逆らえなかったもの」
『貴様など、知らない。お前の顔なんか見たこともない』
中条はいつもそうしてきたように怒鳴りわめき続けた。しかし、母親は容赦しなかった。
「勝が自動車事故で死んだ時は私も辛かった。翔ちゃんは、車を運転していた洋子さんを責め続けた。洋子さんが勝を殺したも同然だって。でも洋子さんは居眠り運転するほど疲れきっていた。翔ちゃんが、家にお金を入れないから、一日中働きずめだった」
『嘘だ、嘘を言うんじゃない』
「とにかく、翔ちゃんは、何でも責任を人に押し付けて、人を恨んで、糞味噌にやっつけていれば満足だった」
『クソ婆が、死ね、死んでしまえ』
「言われなくとも死んでいるわ、つい昨日のことよ。翔ちゃん。あなたと同じ世界に一歩足を踏みいれたの」
『嘘だ。嘘をつくな。俺は死んではいない。俺はここにこうして生きている。このベッドを見ろ。この体を見ろ』
「違うわ。翔ちゃん、よく見て。ベッドに寝ているのはまだ子供よ。貴方は今何歳だと思っているの?翔ちゃんが死んだのは45歳の時よ」
『俺が死んだって、嘘を言うのもいい加減にしろ。俺は、脳溢血で倒れ、そして全ての感覚を失った。しかし、意識だけははっきりとして、ここに寝ているんだ』
母親は思わず吹き出し、可笑しそうに声を上げて笑った。
「それって、洋子さんに復讐するために夜毎紡ぎ出された作り話の一つにすぎないわ。この子は良く夢を見る体質だから、今晩は二回も夢を作り出せた。でも、今回の設定は正に今の翔ちゃんとそっくり。身動き出来ないで、そこに縛り付けられている」
『止めてくれ、作り話なんかじゃない。俺はこうして生きているんだ』
「いいえ、よく見なさい。この子は翔ちゃんじゃないの。翔ちゃんは死んだのよ。舞さんと一緒に車で事故にあった。舞さんは救急車の中で、翔ちゃんはこのベッドの上で死んだの。あの世にも行かず、ここに留まっているってことは、よっぽど死にたくなかったのね」
そう言うと、母親は、ベッドの斜め上の天井に視線を向けた。その瞬間、中条の意識はベッドに横たわる少年の体からすーっと離れ、母親と面と向き合うことになった。荒い息をはきながら、母親を睨みつけている。
「そろそろ目を覚ます時よ。翔ちゃんは、この病室に来る人来る人の夢の中に入り込んで、人の夢を横取りして自分の思いを遂げてきた。物語を紡ぎ出し、洋子さんや阿刀田先輩に対する恨み辛みを何度も何度も晴らしてきた。空しいと思わないの」
『空しくなんてない。俺は勝を本当に愛していた。その責任を洋子に取らせなければ俺は浮かばれない。死んでも死に切れなかった。だから……だから……』
「確かに、翔ちゃんは、勝の葬式のとき声を上げて泣いていたわ。そして勝のことで洋子さんを責め続けた。でも、翔ちゃんが、洋子さんを責め続けたのは、何もそれが理由ではないわ。お母さんは知っているのよ」
『いったい、何を知っているというんだ。変な言いがかりはよしてくれ。俺は純粋に勝のことで洋子を憎んだだけだ』
「翔ちゃんが、残った300坪のうち200坪を売って事業を起こした時、雇った事務員が片桐舞さん。翔ちゃんが入社2年で辞めてしまった会社の部下。舞さんの洋子さんに対する嫌がらせはその時から始まっていたのよ」
『……』
「そして追い討ちをかけるように勝が亡くなった。翔ちゃんは、これを機に一気に離婚に追い込もうとした。だから洋子さんが最も傷つく言葉を吐き続けた」
『……』
「洋子さんが離婚届に判を押さなかったのは、舞さんの存在があったからよ。嫌がらせを続ける舞さんを心底恨んでいた。だから洋子さんも意地になってたみたい」
『舞とは愛し合っていた。あいつも焦っていたんだ。俺と結婚したかったんだ』
「焦ったから、あんなことまでしたの、二人して」
ぎょっとして母親を見た。まさかそこまで知っているとは思いもしなかった。中条の視線が落ち着きなく揺れ動く。
「洋子さんは、バックミラーで貴方たち二人の顔をみているの」
母親は視線を合わせようとしない息子を睨みつけた。