夢盗奴
ふわっと、別の女の顔が浮かんだ。大手自動車メーカーに勤めて2年目のことだ。同じ課に配属された新人の片桐舞だ。舞とは2年ほど続いた。若い肉体の魅力に抗することは至難の業だった。待ち合わせて、その姿を見ただけで勃起したものだ。
舞の眼差しが、パソコンに向かう中条に注がれる。いつもの店で待つという合図だ。中条は窓の外に視線を向け、OKの合図を送る。舞との浮気は地雷源を勘だけで歩いていくようなものだった。洋子に気付かれぬよう細心の注意を払った。
いつもの喫茶店で、舞が重い口を開いた。
「貴方の子供が欲しいの。決して離婚を迫ったり、生まれた後で認知して欲しいなんて言ったりしない。誓ってもいい。ただ、あなたの赤ちゃんを産みたいだけなの」
俺はあの時、何と言ったのだろう。どうしても思い出せない。青い顔して呆然としていただけかもしれない。でも洋子の顔が浮かんだのは確かだ。結局、妊娠したというのは舞の早とちりだったけど、あの時は本当に焦った。
しかし、思い返してみれば、舞は可愛い女だった。後先も考えず、浮気で出来た子供を生みたいと言ったのだ。中条は、そういう女性もいるということに感動した。利己的な人間ばかり見てきた中条にとっては新鮮な驚きだった。
次々と思い出がリアルな映像となって額の前あたりに浮かぶ。懐かしい顔、情景、そして季節の移り変わり、全てが生き生きとして中条の眼前に展開する。まるで、視覚があるのかと錯覚するほどそれはリアルだった。
これは新たなる世界の創造だった。あの、悪夢の発作以来、何十年と見てきた目映い世界が闇に閉ざされ、暗黒の世界で生きるしかなかった。しかし、勝の言葉が強烈な刺激となって暗黒の闇を取り払ってくれたのだ。世界を創造してくれたのだ。
新たな世界の中で、中条は想像し、夢想する。ふと、あれは夢ではなく、この想像の世界での出来事だったのかと思ったりする。あの若き日の自分に出会ったことだ。その遠い記憶を呼び起こそうとするのだが、切れ切れの情景しか浮かんでこない。
何はともあれ、新たな世界が開けたのだから、そんなあやふやな記憶など、どうでもよいことかもしれない。この世界に居る限り、中条は自由を満喫し、失われた青春を謳歌することができた。それを可能たらしめているのは、勝が常に新たな息吹を吹き込んでくれるからだ。
半年ほど前、勝が打ち明けた。演劇の道に進みたいと言う。文学座の研修生の試験を受けるか、大学を受験するか悩んでいたのだ。中条は話せないもどかしさはあるものの、勝の気持ちが手に取るように分かった。蛙の子は蛙だ。中条と同じ感性を持っている。
中条は高校時代その両方を、大学と演劇を求めて進学の道を選んだ。大学で法律を勉強し、演劇部に在籍した。もちろん、勝は中条よりよっぽどしっかりしており、二股をかけるつもりなどない。そう、演劇の道に進みたいのだ。中条は心から声援を送った。
勿論、勝に不満がないわけではない。それは勝が決して洋子のことに触れようとしないことだ。もしかしたら既に離婚が成立しているのかもしれない。しかしそれも割り切ることにした。この小さな幸せで満足するしかないのだから。そして洋子の身勝手も許した。
しかし、そんな幸せは、突然、音もなく崩れることになる。
最近の勝の様子がおかしい。話す言葉に力がない。心ここにあらずというか、言葉が単調で抑揚がないのだ。今日も、元気のない話し声が響く。心配で心配で心が張り裂けそうになる。と、突然、勝が声をだして泣き出した。中条は驚愕し、叫んだ。
『どうしたんだ、勝。勝、何でも、お父さんに話してみろ。勝』
ガタンという音が響いた。椅子から立ち上がった様子だ。そしてしゃくりあげながら部屋を出て行く。ドアが軋み、そして勝は部屋を後にした。
『勝、勝、戻ってこい。何でも話してみろ。俺が受け止めてやる。どんなことでも、たとえ母さんのことでも、俺は受け止める。お前が、母さんのことに意識的に触れようとしなかったことを、俺は最初から気付いていた。だから、何でも話してくれ』
中条の叫びは空しく暗黒の世界に響き渡った。
第六章 因果
どれほどの時間に耐えただろう。じりじりと、歯噛みしながら待った。待つことしか出来ない自分の非力は如何ともしがたく、それを呪ったところで、何の解決にもならないことは分かりきっていた。だからじっとその時間に耐えたのだ。
そして、その時はやってきた。勝が部屋に入ってくるのが分かった。闇の彼方のドアが開かれ、そこに浮かび上がった影は、暗い予感を含み、ただそれに耐えろという前触れのように感じた。だから中条はじっと待った。勝の声を。
「父さん。ご免。今日で、お別れだ」
覚悟はしていたつもりだったが、胸が締め付けられ息ができないほどだ。
『勝、それはどういう訳だ。いったい何があったと言うんだ』
長い沈黙があった。心が張り裂けんばかりに膨張し波打った。それでもじっと待った。
「俺は、母さんを殺してしまった。自分の母親を殺してしまったんだ」
勝の涙声が響いた。衝撃が中条の体を走った。微かに光が射し始めていた薄闇の世界が再びどす黒い暗闇に戻ってゆく。その時、どこからともなく、あのうめき声が響いたのだ。
『なんということだ。前世では洋子が勝を殺し、今生では勝が洋子を殺した』
その声に驚いて、中条は見えもしないのにきょろきょろと辺りを窺った。しかし、この声の主の気配はない。勝が話し始めた。中条は不気味な声に動揺しながらも、勝の声に耳を傾けた。
「親父、信じられないことだけど、俺は親父の子供じゃなかった。俺は信じたくなかった。でもそれはどうしようもない事実なんだ」
頭が混乱していた。いったいお前は何を言っているんだ。お前は俺の子供だ。それは間違いのない事実だ。そんなことあり得ない。
「違うんだ、親父。ふと疑問を抱いてDNA検査をした。そして真実を知った。だから、今日、問い詰めた。そしたらお袋はこう言った。『勝は、あの有名な阿刀田さんの子供なの、だから演劇の世界での貴方の将来は約束されているのよ』って」
中条は叫んだ。
『馬鹿なことを、なんて馬鹿なことを』
「そうだ、まったく馬鹿げている。俺はお袋に言ってやった。俺はそんな薄汚いコネクションを利用して世にでようなんて思ってもいない、と。お袋は俺を見くびっていた。だから俺はあんたとは違うと言ってやったんだ」
『たとえ、洋子がそんなことを言ったとしても、どんなに洋子が卑劣な人間であったとしても、殺すなんて。お前の人生、これからどうなる。そのことを考えたのか』
「勿論考えたさ。でも、俺は親父が大好きだった。だから、だから、思わず、首を絞めた。お袋は、戸惑いと驚愕の目で俺を見た。俺は親父の顔を思い浮かべた。だから、だからこそ、指先に力を込め続けたんだ」
勝のむせび泣く声が響く。狂おしいほどの無念さが胸を掻きむし毟り、煮えたぎるような憎悪が心に渦巻いた。もはや、互いに意思疎通している不自然さなど気にならない。
『卑劣な女、洋子!勝を殺しておきながら、少しも反省しようとしない女』