夢盗奴
老婆が帰るとほっとする。確かに性悪の息子だったのだろう。しかし、それは自分の育て方にも問題があったのではないかと思う。何故なら、全ての責任を息子に押し付け、自ら省みることはない。子供は愛情をかけてさえいればまともに育つものだ。
勝を見ればそれが分かるはずだ。勝が見舞いに来て、この老婆と鉢合せしないかと思うのだが、そんな機会など巡ってこない。何故、勝は来ないのか。きっと何か訳があるにちがいないのだ。洋子が俺の知らぬ間に離婚届けを出している可能性もある。
もしかしたら、と思う。元気だった頃に抱いた疑惑、洋子と阿刀田先輩との疑惑が突如浮かび上がった。狂おしいほどの嫉妬が胸を掻き毟った。
『許さんぞ、貴様、許さん、阿刀田そして洋子、殺してやる。呪い殺してやる』
突然、大きな吠えるような声が聞こえた。中条は思わず、辺りを窺ったが何の気配もない。不気味な静寂の音がしーんと鳴り響いているだけだ。
どれほどの時が重ねられただろう。それは孤独と絶望、そして嫉妬の世界だった。老婆の話はうるさいハエのように、憎しみを倍加させるだけの音に過ぎない。老婆の顔に唾を吐き掛けたいと思うのだが、自分にはその力もない。
しかし、突然、それは訪れたのだ。椅子のきしむ音。そして荒い呼吸。何が起ころうとしているのか耳に神経を集中させた。
「お父さん。ご免」
ポツリと男の声が響いた。この時の衝撃を何と表現したらいいのだろう。動かぬ体が衝撃で飛び上がったように感じられたほどだ。そして叫んでいた。
『勝、勝じゃないか、どうしていたんだ。お前に会いたかった』
涙が頬を零れ落ちたように感じた。それは錯覚に過ぎなかったのだろうが、本当にそれは流れ落ちたとしか思えなかったのだ。勝の声にじっと耳を澄ませた。
「俺はアメリカに三年間留学していたんだ。お袋は、親父のことを俺に知らせてくれなかった。知っていたら、すぐにでも帰国した。ご免。お袋のことを許してやってくれ。俺に心配させたくなかったと言っていた」
『分かった、分かった。許すよ、全て許す。お前も知っているだろう。俺が誰に対しても寛容で忍耐強いことを。お前はそんな俺に育てられたんだ。そんなこと、お前が一番よく知っているじゃないか』
またしても涙が頬をつたわるのを感じた。
「親父、堪えて生きてくれ。親父が生きていてくれるだけで、俺は力が湧いてくる。そうだ、交換に、俺が親父の力になってやる。俺の人生を話して聞かせてやるよ。毎週来るから、約束する。そうだ、今日は、今までの話をするよ。俺は三日前までアメリカに留学していたんだ。」
勝は一時間ほど話して帰っていった。熱い思いが波のように後から後から打ち寄せてくる。感動の波が、勝の語り口とともに甦ってくる。楽しそうな暮らし。刺激を求める若者の情熱。懐かしさがこみあげてくる。確かに、自分にもそんな時代があった。
『勝、生きろ。そして俺に聞かせろ。お前と一緒に生きていこう。老婆よ、お前さんも、勝と会って話してくれ。勝はきっと、お前さんの心を癒してくれるはずだ』
幸せの日々が続いた。毎週日曜日が待ちどおしかった。勝は、授業のこと、先生のこと、友人達やクラブの仲間の話、ありとあらゆることを語って聞かせてくれた。小一時間ほどで帰ってゆくが、まさに至福の時であった。
勝が帰った後も、中条は想像の世界で遊んだ。息子の視線で世界を見る。そのエピソードを思い出し、個性的な友人達の顔を思い浮かべる。くっきりとその顔が見えてくる。まるで写真を見せられたかのように。
勝が、心ときめかせ電車で出会う女子高生を見詰める。その視線の先にあるのは、中条が昔、電車で見初めた女学生だ。脳裏にその時の情景が浮かび上がる。初めは輪郭があやふやであったが、意識を集中させると、細部まで映像を作り上げることが出来た。
女学生の名は山下るり子。清新女学院3年。中条と同じ年だ。セイラー服姿が楚々として、お嬢様を絵に描いたような女性だ。話しかける勇気はなく、ラブレターを何度も書き直したが結局捨てるはめになった。
映像が変わる。中条がそのるり子と手をつなぎ、新宿の雑踏を歩いている。そうだ、大学一年の時、偶然山の手線で出会って話しかけたのだ。彼女も高校時代、中条を意識していたと言う。道すがら、厭な男と出くわした。その男の下卑た顔が大写しになる。そして男が言葉を発した。
「中条、いい女連れてるじゃねえか。俺にも一発やらせろよ」
俺はかっとなって言ったものだ。
「阿刀田先輩、先輩だからといって、それは言いすぎじゃありませんか。言っていいことと、悪いことの区別もつかないんですか」
「おい、おい、そうかっかするな。冗談だ、冗談だよ。それに俺はもう大学は辞めたんだ。先輩、先輩って言うな。俺は今、文学座の研修生だ。あの世界に入ったら、その程度の女なんて掃いて捨てるほどいる」
この言葉を聞いて、俺は思わず殴りかかった。結果は悲惨なものだったが、その行為そのものに意味があった。るり子にとっても、結局別れることになったとはいえ、あの時のことは忘れられない思い出になったはずだ。
るり子と別れることになったのは、洋子との出会いが原因だった。「凄い新人が見つかったんだ」俺がそう言った時、不安そうに見上げるるり子の視線に出会った。俺はるり子に言った。「そんな心配するな。お前を裏切ったりしない」
しかし俺は洋子に心を奪われていった。彼女の面影が脳裏に刻まれて、片時も離れなかった。そんな様子を心配そうに見詰めるるり子。るり子は次第に身を引いていった。まるでそうすることが自分の清廉さの証だとでも言うように、つつましく視界から消えていっ
た。心優しい女だった。
数年して、阿刀田先輩から家に電話があった。その卑屈な声が甦る。
「あの時は悪かったな、本当に謝る。あの頃の俺は心が荒んでいて、しかも精一杯悪ぶっていた。自分でも恥ずかしいよ。でも、そんな突っ張ることが出来たのも、若者の特権みたいなものだ」
俺は努めて冷淡に答えた。
「でも、脳震盪で気を失った僕を置き去りにしたのは納得できませんね。打ち所が悪くて死んでいたかもしれないじゃないですか」
「あの頃は、喧嘩に明け暮れていた。だから相手がどの程度のダメージかは手に取るようにわかったんだ。だいいち、あの時は、かなり手加減して殴ったんだ。おいおい、もういい加減許してくれよ。さっきも謝ったじゃないか」
「ところで、何年も前の事なのに、こうして先輩がわざわざ謝りの電話を掛けてきたってことは、他に用事があるんでしょう」
かなり皮肉っぽく言ったが、相手はそれを理解できるほどの感性など持ち合わせてはいない。
「実は、ちょっと、言いにくいんだが、お金を拝借したい。二十万、いや、十万でいい。必ず返す。必ず返すから頼む。後生だ。頼まれてくれ」
最初から分かっていた。阿刀田先輩は、たとえ自分が悪いと思ったとしても謝るような人ではない。しかし何かの都合が生じ、その必要があると思えば、いくらでも頭を下げられる、そんな人なのだ。