(続)湯西川にて 26~30
(続)湯西川にて (28)男気の果てに
「頭に血が上るというのは・・・・おそらく、
若頭が思わずとってしまった切羽詰った行動のことを、
指して言うんだろう。
若頭は、海の上でのクジラの仕事にかけては、すこぶる
沈着冷静で通っている。
だが、陸に上がると少しばかり勝手が違うようだ。
こと女に関する限り、まったく経験が足りん。
惚れた弱みと、人一倍の正義感の強さが、
こいつの冷静な判断を狂わせたようだ。
自分が惚れこんだ女には、別に心を寄せている相手がいた。
その相手というのが、暴力団員というのが許せなかった。
だが理由がどうであれ、闇打ちや、刃物を使っての襲撃などというものは、
卑怯者がやることだ。
普段ならば若頭にも、そのくらいの自制はできていただろう。
しかしすでに頭に血が上って逆上しきっていたこいつは、
よせばいいのに岡本をわざわざ居酒屋に呼び出して、
一緒に酒を飲もうと言いだした。
話し合いをするだけなら、どうってことのない男同士の腹を割っての
呑み会だが、万一に備えて、こいつは最初から刃物を懐に隠し持っていた。
まぁ、こいつにしてみれば、
腹と覚悟を決めた上での対決だったのかもしれん。
不穏な空気をすでに察して、岡本と一緒にやってきたのがこの俊彦君だ。
銚子で板前をしている彼は、クジラ料理の研究と、旧知の岡本に会うために
時々、和田に来ていたし、わしや若頭ともすでに面識が有った。
男と女をめぐるわだかまりには、すでに気がついていたようだし
何かが有っても困るからと、わざわざ同席を希望して着いてきたようだ。
それはそうだ・・・・そのくらいのことは誰にでも推測がつく。
血の気の多い若い者同士が、一人の女を奪い合えば、
当然ながらどこかで喧嘩ざたに発展するか、
悪くすれば刃物三昧になりかねん。
俊彦くんが心配をした通り、事態は険悪の一途をたどった。
それはそうだ。どちらにも体面はあるし、惚れた女を諦めようという
気持ちはない。
当然のことのように、決着をつけるために『表に出ろ』と
啖呵を切ることになる。
だが、こいつの手にした刃物はとりわけ鋭利で、きわめて
強靭をほこる刃物だった。
クジラ漁師は、脂肪の厚いクジラを解体するための強い腕力と、
それに耐えうる刃物を常に所持をしている
それがまた、悪い方へ災いをした・・・・
だが、予想に反して一撃目を承知で受け止めたのは、
仲裁役として、この二人に間に割って入った俊彦君だった。
一撃目の傷口は深く、刃物は右足を鋭く貫いたそうだ。
しかし彼の一瞬の機転が、暴力による決着は必然と言う男たちの空気を、
完全に止めた。
あわてて病院へ担ぎ込もうとしたが、それをまた俊彦君が制止をした。
・・・・考えても見ろ。
普通の傷害事件じゃ収まりきれないものが多々含まれている。
岡本は広域暴力団の構成員で、将来が約束をされている幹部候補だ。
一方の若頭も、外房総で伝統のある沿岸クジラ漁師たちの、総まとめ役だ。
事が明るみになれば、双方に甚大な影響が出る。
わしの面子にも、おおいに泥を塗る結果にもなる。
だが、その時に、この俊彦君は実に驚くべき行動をとった。
傷口を止血した後、岡本にオートバイを運転させて館山に向かったと言う。
若頭が飛んできて、事情を知ったわしらがあわてて後を追い
館山方面へと向かったが、発見した時には、
すでに坂道で、転倒事故を起こした後だった」
「こういうのが、ほんとうの男だ」鬼瓦が、3杯目の日本酒を
あおるようにして一気に呑み干します。
「丘陵地の坂道で、岡本からヘルメットを受け取り運転を代わったという。
坂道を全速で下り始めて、途中で急ブレーキをかけ、
転倒すると、そのままの勢いのまま畑の中に突っ込んだ。
その結果が、両足への複雑骨折だ。
だが、驚いたことにこの転倒事故にはもうひとつの細工があった。
途中で寄った顔見知りの割烹の大将から、板前が使う包丁を借り受け、
右足の太ももへこっそりと仕込んでいたと言う。
そりゃあそうだろう。
ただオートバイで転倒をしただけでは、足に受けた刃物傷は隠せない。
すべてを覚悟の上で、周到にこれらを準備をしたうえで、
こいつは単独運転として、館山で転倒事故を起こした。
そうまでしてこの男は、親友の岡本を守り、うちの若頭を守り、
わしの面子まで守ろうとした。
もろもろの対策を瞬時に考えだした挙句、それをためらいもなく
やってのけたことに、わしはすこぶる驚愕をした。
この男は、そんな非常識を、ものの見事にやってのけた。
骨折なら、せいぜいが1カ月かそこそこだ。
しかし、深く傷ついた刃物の刺し傷の完治は、きわめて遅い。
その時間稼ぎも含めて、俊彦君は、自分の意志で自分の身体に
刃物の傷までをつけた。
呆れ果てて驚いたが、こんな無茶を実行できる男はめったにいないだろう。
そういうことだ。
それが、今回の事件のすべての顛末だ。
だが、こいつには、女っ気がまったく無いと言う。
退院してきても、それじゃ困るだろうと思って、八方手をつくしていたら、
この岡本から、ひょっこりとあんたの名前が出てきた。
わしに配慮できるのは、せいぜいその程度だ。
一週間でもいいから、是非、呼んでやってくれと、俺が岡本に
無理矢理に頼みこんだ。
そう言うことだ・・・・それであんたに
はるばると、館山まで来てもらったと言う次第だ」
(なるほど。あれほど熱心に岡本さんが、
私を口説きに、足しげく通ってきた意味がようやくに、
此処に至って解りました。
あなたったら・・・・無茶をするにも、限度と言うものが有るでしょう。
まかり間違って、一生を棒にでも振ったら、一体どうするつもりなの。
私も泣きますが、あなたの娘の響まで泣かせることになってしまうのよ。
まったく・・・・もう、貴方と言う人は)
(でも、変わっていませんねぇ。)と清子が苦笑いを浮かべています。
ひとしきりの説明を終えた鬼瓦が体の向きを変えると、岡本へ
厳しい視線を向けます。
「来たか・・・・」と言う風に、岡本も背筋を伸ばし正座で相対します。
「俊彦君の機転のおかげで、
3者が3様に、わずかだが首の皮が、一枚ずつ残ったことになる。
また俺の頼みを聞き入れて、一肌脱いでくれたことに
大いに感謝もしている。
だが、ただちに娘との交際を辞めろとは言わないが、
現状での、娘のさきとの婚約は申しわけないが、認めるわけには
いかなくなった。
それが今の時点での、俺の結論だ。
俊彦君の顔をたてるという意味で、ふたりがつき合うことは認めよう。
だが、結婚だけは断じて許さない」
岡本を見つめたまま、鬼瓦が4杯目のコップを高々と持ち上げます。
そのまま動作を停めると、今度は、険しい顔のまま鋭い眼光が
若頭をにらみます。
「今回の出来ごとで、一番助かったのはお前だと思え。
紙一重のところで、お前は犯罪者にならずにすんだばかりか、
作品名:(続)湯西川にて 26~30 作家名:落合順平