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8/9のバッドタイムズ

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「ただ、こんな状況が嫌でしょうかないだけ」
 辛そうな表情も浮かべず、ましてや泣きもせず、それどころか辛いとすら言わない女に、男は一体どんな言葉を掛けてやれば良いというのだろう。
 もしも彼女がクラリネット奏者の卵だったら、膨れ上がる涙を親指で拭ってやって、何か適当な慰めの言葉を掛けながらベッドへ連れ込めばいい。けれど今は払う滴がない。寝室の所在も分からない。
 不謹慎であるとは思ったが、疲労を乗り越え更なる自我の奥へ潜っていくドーンの横顔は口を開けて見とれてしまいそうなほど美しかった。安物の葉っぱを吸って神経をごまかしていたときですら、これほど心がぴたりと動きを止めるほど感じ入らなかっただろう。好きにしろ、とたまらず心中で呟いていた、ほとんど悪態に近い口調で。


 はらわたを焦がす怒りに促されるまま、リンは閉め切られたフリーザへ歩み寄った。頭を冷やすべきだ。例えそれが、けいじ学的な意味すらもたらさないとしても。先ほど他人の肉へめり込んだ拳の骨は、甥っ子があぶくを吹きながら予兆を訴える乳歯のようにむず痒い。宥める方法は一つだけ。気が済むまで同じ刺激を与えればいい。
 フリーザの向こうからはすんとも物音が聞こえない。大義名分のためにも、もう少しくらい暴れるなり、汚い言葉を喚き散らすなりしてくれればいいのに。拍子抜けと共にやってきたもどかしさは簡単に苛立ちへと変化する。
 扉は閉じるときより開くときの方が力を要する。両足へ力を込めて踏ん張りながら、リンは鉄製の重いドアを引いた。ほんの少し出来た隙間から、小さなつむじ風が駆け抜ける。長い毛足を野菜のように冷やした猫は、地獄から抜け出すと一目散に部屋の隅へと遁走した。
 四隅へ逃げた影へ体を突っ込むようにした男は、先ほどと全く同じポーズで倒れ伏している。その事実にリンが気付いたのは、彼の靴へ蛇のお化けのようにソーセージが巻き付いたままであるのを目にしたときだった。先ほど力の抜けた肉体を放り込んだとき巻き添えを食らったそれは、まさしく動きを阻んでいるかの如く絡まっている。
 俯せのまま動かない背中にリンが首を傾げているとき、ふいに耳からうなじにかけて艶やかなくすぐったさが被さる。ビスケットのように甘いミドルノート。少なくともシカゴの郊外で振りまくには、あまりにもこ惑な香りだった、
 リンの背中越しに中を覗き込んだドーンは、受容する耳朶を凍り付かせるような低い声を吐き出した。
「大変」
 リンの手へ被さり強く取っ手を引く指も、色を変えるほど熱を失っている。
「発作よ。アレルギー、猫の」
 身を捩って中へ滑り込み、膝を突く。身を丸めた彼女が新たに影を作ることで、リンはようやく暗闇に目を慣らすことが出来た。ばた足のように小刻みなリズムを刻む足の甲。モーターの低い唸りに紛れて聞こえるぜいぜいと荒く、時折ひきつる呼吸。
「打ち所が悪かったかな」
 まだ緩やかな疼きを発し続ける拳を固め、リンは呟いた。これだからガキは嫌なんだ、喧嘩の作法ってのを分かってない。正面から叩くフリーザの冷気でも、背中を押す空調の風でも、どちらでもない寒気が背中を這い降りる。
「違う」
 俯き、後ろ姿とは言え、ドーンは首を強く振ることではっきりと否定した。流れた髪から現れた項が、暗がりの中に浮かび上がる。
「前にも同じようになったのを。猫と同じ部屋にいるだけで涙が止まらなくなる」
「薬とかは」
 女の薄い唇の動きが視覚を越え、直接頭の中へたたき込まれる。ようやくまともに動き始めた脳味噌と共に、リンは一歩中へ踏み入った。
「どこだ? くそっ、ヤバいのか」
「病院へ連れて行かないと」
 細腕で抱えあげられたとき、剥かれた白目が青白いのと、唇が紫になっているのは、決して暗がりのせいだけではないのだろう。顔に限らず、全身がまるで枯れ木のように強張り萎えている。それが伝染し、戸惑いと未知の出来事に対する恐れと混ざり合って体を支配しないうちに、リンも男の傍で身を屈める。覆面をして車から降り、運転手をホールドアップへ誘うためをトラックの運転席へ近付くのと同じ。深く考えるよりも、いざ事が起これば体が動くに任せた方がいい時もある。
 痙攣する男の腕を掴んで自らの肩に回し、リンは見上げてくる殆ど公債の見えないような瞳をしかと見つめ返した。
「車を廻す。ここで待って……留守番してろ」
「私も」
「いい。猫を放り込んだのは俺だし、ややこしいことになんか巻き込まれたくないだろう?」
 彼女は立ち上がった。眼差しが同じ位置まで来たとき、その眉がもどかしげにひそめられたのを、残念ながらリンは見逃してやることができなかった。反論はせず、かといって従うことなどさらさらなく、ドーンは力なくぶら下がったもう一本の腕を自らの首へ巻き付けした。彼女が支えなくても、こんなひょろっこい男なら十分家の外へ引きずり出すことが出来ただろう。
 骨ばった男の体へ触れてからは、一度としてリンの目を見ようとはしない。俯いたまま作るひどくしゃがれた声は、寒さの中で淡い白さに凍り付いた。
「こんなところにいるより、ずっとマシ」
 頬骨から上がぴくりとでも動いてくれたら、リンとて女の嘘を信じる気になっただろう。結果は、白磁人形のような無機質さが肌に染み込むだけ。自らが踏みしめる数歩先へ据えられた焦点が、本当は何を見たいか知るとなるとなおさらだった。


 居間へ残したグラスに思い至ったのは門からデイトナを突入させた後。背の高い門柱から飛び出したが最後、リンは二度とここへ戻るつもりなどなかった。招かれざる客の痕跡は、きっと屋敷中に投げ出されていることだろう。洗っていない猫の皿。飲みさしのビール瓶。リビングはインドの香でも焚いたかのような臭いを保っているだろう。彼ですらまだまだ指を折って証拠を挙げることができるというのに、聡いドーンが焦りに身を任せ全てを投げ出したとは到底思えない。車を廻す間も、彼女は崩れ落ちそうな男の身体をしっかりと支えていた。細身の体のとこへそそんな力を秘めていたのかと訝しく思うほど、踏みしめられた足は強く、しかも大きくがに股に開いたりなどしない。バックミラーに映る遠ざかる姿、フロントガラス越しの近付く姿、どちらを目にしたときも、リンは言いしれぬ戸惑いを隠すことができなかった。
 願いも空しく、ドアが開いた途端、ドーンは男と共に後部座席へ這い上がった。必然的に乱暴となるアクセルの踏み込みで身体が揺れるとき、落ちたかのようにうなだれた頭を両腕で抱えて見せた程だった。
「この近くなら」
「ええ。市立病院へ」
 ドーンは頷いた。
「あそこへお世話になってるって、本人から聞いた」
「ならいい、面倒見てくれるだろう」
 正面を向いたまま、リンは片眉を大きくつり上げた。
「それとも、自分で見るか」
 問いかけに返事はない。代わりに動きを見せたのは沈黙を保っていた男だった。不意に肩胛骨と胸が盛り上がる。思わす身構えるよりも、発作は早く大きい。薄桃色のとしゃ物がレインボーのシャツへ盛大にぶちまけられるのを、リンはミラー越しになすすべなく見つめているしかなかった。