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セールス・マン
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8/9のバッドタイムズ

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 無様な悲鳴が耳へ届く前に、リンは爪先を男の腹へたたき込んだ。普段の取っ組み合いなら、この段階へ到達するまでにお互いもう少し青あざを作り疲弊している。だが一発蹴り込まれた時一瞬息を詰めるものの、男は鼻血をまき散らしながら、芋虫のように這いずって逃げようとした。無様な姿も、お気に入りのフラットシューズに血混じりの唾が飛ぶことも、むかっぱらを煽るばかり。怒りを対象へ素直にぶつけるため、リンはもう一度、今度はこめかみに狙いを付け、サッカーボールにでもするように足を繰り出した。首がもげたかと思うほど激しく頭を上下させ、男は完全に逃げる気をなくしたようだった。
 フリーザから飛び出したばかりでは暑さすら感じる空気を、クーラーは淡々と循環させている。そんな冷風に重ねるよう、生ぬるいアンモニア臭が流れてきた。
「おいおい、さっきの威勢はどうしたよ」
 乱れた髪を掻き上げながら、リンは男の腰を踵で突いた。些細な刺激にも恐怖は煽られるのか、男は横たわっていた身を一層丸める。反射的な動きは、タイルの上へ広がった小水を拭き取っているとも、塗り広げているとも、どちらとも取ることができた。
 衝撃で意識を朦朧とさせる男に更なるお仕置きを加える前に、リンは傍らのドーンを振り返った。
「どうする」
 血の気を失った唇と頬は、青いチークとルージュで化粧を施したかのようだった。それが決して恐怖由来ばかりでないことに、リンは気付いていた。根拠は単純、握りしめられた手に拒絶が見えない。骨が突き出た肘を強く握り、ドーンは先ほどまで無体を働いていた男を見下ろしていた。隠すことの出来ない厳しさで顔を染め、けれどそれは決して主張が強すぎるわけではないのだ。
「もっとして欲しい」
 追いつめられたときに聞かせたぞっとするような無機質は、もうなりを潜めている。リステリンが7ドル98セント。レジの前でそう告げるのと同じ抑揚で、ドーンは言った。
「けれど、それがいけないことだって分かってる」
「じゃあ止めとこう」
 あっさりと肩を竦め、リンは男のシャツの襟首を掴んだ。先ほど猫に対してやれなかったことをそのまま再現するよう、脱力した体を引きずる。床に跡を残す小水に思わず顔をしかめるたのは彼だけで、ドーンは一挙一動を黙って見守っていた。
 フリーザの中へ投げ込まれても、男はあのくだらない悪態のボキャブラリーを披露しなかった。固いコンクリートの床に肩をぶつけたとき、微かに呻いたのが唯一の反応。扉を閉めようとしたところで聞こえたにゃあに、リンはにんまりと笑みを浮かべた。ジーンズの裾を手でもてあそぶ猫の胴を両手で抱え、倒れ伏す男のいるあたりへ放り投げる。
 悲鳴ごと閉じこめるよう扉を封じ、リンはようやくドーンと向き合う機会を得た。
「さて」
 わざと大きな音を立てて手を叩き合わせ、相変わらず汚れた床と異臭の間に佇むドーンを見遣る。
「何か飲むか」
「いらない」
「奇遇だな、俺もだよ」
 関節にこびりついた血が、かっかと熱を持つ。拳の骨の軋みが鼓動と歩調を合わせる。全身へ廻った興奮を宥めるのは潤いじゃない。乾きが欲しかった。
 ポケットで丸まっていたポールモールのパッケージから一本取り出してくわえ、火をつける。燻すような辛さは喉を干上がらせ、持続したままのアドレナリンが尾を引くようにゆっくりと収束へ導かれる。換気扇代わりの空調は、紫煙を簡単に薄めてくれた。胸がムカつくような小便の臭いだって、今に消えるだろう。先ほど吸っていたグラスではあり得ない、短く出来るだけ早く燃やすような飲み方を繰り返しながら、リンは部屋の隅へ視線を流した。汚れた餌皿は半分近い食べ残し。猫に反省を促したのは正解だった。あんな柔らかそうで脂の乗った切り落とし、メニューを考えるだけで十分腹が満たされるに違いない。
「聞きたい?」
 呟くようにドーンが尋ねたのは、母親が昔作ってくれたビーフストロガノフに思いを馳せていた時だった。皿中かき回して探す肉片、スプーンで弾くグリーンピース。
「理由を」
「話したいのか?」
 こちらを向いてくれない顔へ横目を向け、リンは言った。
「興味はあるけどな。嫌なら話さなくていい」
 閉ざされた扉を凝視していたドーンは、やがてゆっくりと自らの肘から指を引き剥がした。
「スティーブはボーマンの」
 顔を背け、息絶える前のように深く震える息が、喉までひくりと痙攣させる。
「大切な人。いえ、重要な人って言えばいいのか」
 浮かべれば似合うのだろうと思っていたが、実際顔へ刻まれれば、自嘲はひどく彼女の魅力を損なった。
「ボーマンに大切な人なんていない。自分が一番大事だから」
「企業戦士って奴か」
 開けようと思えば、扉は内側からでも開く。だが閉じこめられた馬鹿がよろめきながら姿を現した途端、リンはポールモールをくわえたまま陰険な優男の襟をねじり上げ、今度こそどんな高級な挽き肉ですら噛めなくなるほど歯をガタガタにしてやるつもりだった。
「あまりバランスのいい組み合わせじゃないな。まるでJFKとマリリン・モンローみたいだ」
「何もなかったわ、彼とは」
 世間話の延長上でつらつらと言葉を組み合わせるリンと違い、ドーンの声は相手と会話をする意志も期待も皆無、どこまでも投げやりだった。
「薬局にヴィックスのトローチを買いにきた彼が小脇に抱えてたのが、サマセット・モームの評論だった」
 竦める肩の動きは堅い。冷静に振る舞おうとし、その目論見はほとんど成功している。
「その時点で気付くべきだったのに」
 これであと、話をしている男の目を見ることが出来れば、誰も悟ることすらできないだろうに。例え咳止めシロップを手渡すときですら、いつでも相手の顔をまっすぐ見据えていた瞳は、フリーザへと突き刺さっている。
 深みを増したそれはやがて、ようやく動いたかと思うと、雲間に隠れた神を追いかけるように天井へと滑った。
「この家の二階に、大きな書斎があるの。本棚には百巻を越えるようなイギリス文学全集が、好きなときに来て読んで良いって。話し相手になってくれって」
 尖った顎は肥満などとは無縁。煙草がどんどん短くなり、まだ色が変わったままの濡れ跡濃い床へ灰が落ちていくことなどお構いなしに、リンはじっと相手の話に耳を傾けて見せた。
 もっとも、聞く姿勢などドーンは特に気を払わなかったに違いない。彼女の言葉はほとんど独白、シャンソンの中で語られる物語のようだった。
「十二巻の、ラドクリフ・ホールを持っていこうとして部屋から出たとき、廊下でスティーブと鉢合わせしたの。ほとんど裸だったわ」
 リンが微かに笑ったのが耳へ届いたのか、彼女はつられたように吐息だけで笑いを表現した。
「ボーマンは、好きなようにしてくれていいし、そう振る舞うことを望んだ。ただ一つ、今まで通りここに来て欲しい、スティーブとも友達になって欲しいって」 
「好きだったんだな」
 リンはまっすぐに指摘した。彼女の感情を慮りはしない。それはとてつもなく失礼なことのように思えたのだ。
「そのホモのおっさんのこと」
「いいえ」
 虚脱した顔の中、口元にだけ淡い笑みを浮かべ、ドーンは彼のいる場所へ顔を振り向けた。