8/9のバッドタイムズ
一瞬、驚きの表情を浮かべたものの、ドーンは絡めた腕を放そうとはしなかった。すえた臭いが車内に充満しても、男が醜いえずきを続けていても、それは変わらない。汚物は肩へ流れる艶やかな髪にまで掛かってしまったのではないだろうか。そしてもちろん、愛車のクリーム色をした革製シートにも。
リンが黙って後部座席の窓を開くと、ドーンは悲しいほど冷静な声で「ごめんなさい」と呟いた。ああ、と漏れた自らの声が、コントロール出来ず掠れていることに腹立ちしか浮かばない。
「くそったれ」
「本当に」
「違う、何で謝るんだ」
ぶっきらぼうに言い捨てることで、言葉の続きを摘んでしまったとすぐに気づいた。ミラーの中で彼女はそろそろと男の頭を膝へと降ろし、伏せた目は深く沈んでいる。頭を抱えたくなった。
「一体全体、どうしてこう、厄介な方に転ぶんだか」
嘆きが滴る呻きにも顔が持ち上がることはない。だがリンの思いつく、薄れこそしても残り続ける悪臭と重苦しい沈黙への対処法は、唯一これだけだった。
「ここのところ特にだ」
「まだ最悪の状況じゃない」
俯くことで喉をつぶしたまま、ドーンがぽつりとこぼす。
「死んでない。彼は生きてる」
「いっそくたばってくれりゃ楽なのに。そこらのゴミ箱へ投げ込んどける」
男は喉へ何かを詰まらせた様子はなく、一度盛大に吐き出した後はひゅうひゅうと木枯らしのような音で呼吸を続けている。のろのろ走っていれば、冗談の悪態はすぐざま現実となるだろう。アクセルを踏んで、州道に入る。頭上で点滅する信号など知ったことではない。
「くそったれめ」
「死ぬなんて、そんな簡単に言うべきことじゃないと思う」
「いっそしんじまったほうがいいだろ」
平坦な声を、先ほどまであれだけ求めていたというのに。車外からごうごうと飛び込んでくる騒音に乗ると、どうしてこれほどまでに神経をざわめかせるのか。口調が尖るのをどうしようも出来ないまま、リンはハンドルを強く握りしめた。
「恋敵なんだから」
「恋敵じゃない」
「隠さなくてもいいって」
「本当よ」
「別に馬鹿にしちゃいない」
リンの口調に煽られたのか、背後の反ぱくも少しずつ熱を上げていく。それを耳にした途端、リンの言葉も更に鋭さを増すのだ。このままいけばどうしようもなくなると、頭では分かっている。けれど、かき混ぜられ、エンジンと風の音にもみくちゃの今では、どうしようもない。せめてもの抑制は、正面をひたすら睨みつけることだけだった。
「素直になれよ。普通、女ってのは、下心のない奴のうちで猫の面倒なんか見ないもんだぜ」
「女、女って、よく分かってるのね」
見せつける上目遣いの気迫。こんなものベッドで目にしたら、どれだけいきり立ったモノでも瞬時に萎えてしまうだろう。
「少なくとも私は、毎晩リステリンでうがいなんかしない」
「だろうな」
言葉は簡単に記憶の断片と組み合わされる。そして思い知った。少なくともこの女は、自らが伸ばした誘いの言葉のほとんどを、まともに理解していなかったに違いない。そうであれと望んでいたことをすっかり忘れ、リンは鼻息も荒く言葉を継いだ。
「そんなこったろうと思ってたよ」
「どう思われようと」
まとわりつく異臭を立ち上らせていることを、彼女は何一つ引け目と感じていないらしかった。
「かまわない」
「へえ? じゃあ俺が何を言っても、甘んじて受け入れるってわけだな。いい機会だ、この」
唇が機敏に凍り付いてしまったのは、サイドミラーの中で点滅する青い回転灯を目にした時だった。一拍遅れて、感情を引っ掻くサイレンが響く。
「ちくしょう」
徐行し道路脇に入りながら、リンは呟いた。怒りが限度を超え、体中から力が抜ける。
「ジョン・マクレーンだってもうちょっと良い目見てるぜ」
フロントミラーの中心で唇をぐっと引き結んだドーンと目が合う。
「俺が何とかする」
もどかしさに爆発しかけてる深い青色を見据えゆっくりと言い聞かせた。
「余計なことは言うな」
白地に青い線が一本入った車両から降りてくる制服姿は、条件反射として彼の背骨に冷たいものを走らせる。ダッシュボードを調べられたら全ては終わりだ。シグザウェルの正規品だと知り合いが言い張っていた黒光りする拳銃は、先日の仕事で使って以来放り込んであるままだった。もし見つかった場合、どうすればいいだろうか。刺せるものも、殴りつけることが出来るものも、何一つ持ち合わせていない。そもそもそれは、得策ではない。
動きを止めた途端、デイトナの中には熱気と冷えた胃液の臭いが満ちる。外にまで漏れ出していたらしい。開いた窓に手をかけ身を屈めたとき、警察官はあからさまに顔をしかめた。
「赤信号が見えなかったのかね」
「急いでたんで」
三十過ぎといった男は髭もサングラスもなし。ポケットの中で丸まった紙幣を出したところで、状況は悪化するばかりだろう。政府の犬らしい偉そうな言いぐさにむかつく胸を宥め、リンは歯をむき出す笑みを浮かべた。
「急病人なんですよ」
「弟が発作を起こして」
あれほどきっぱり断ったのに、ドーンは身を乗り出して加勢の訴えを見せる。はらはらしながら、リンは身動きできないまま耳だけで背後の状況を窺うしかなかった。
「早くしないと、死んでしまうかも」
「だからといって3つも信号を無視するのは」
あの惨状を目にして心を動かされないとしたら、みんなの友達おまわりさん失格だ。確かに怯み、後部座席をまじまじと見つめながらも、男は濁した言葉で抗する。
「それに後部座席のシートベルト未装着」
「彼は私のボーイフレンドで。私のために、急いでくれてたんです」
ボーイフレンド。今度こそ、リンは腹へシュガー・レイが放った黄金のブローを食らったような気分になった。それが方便であると知っていても、平静を失った身には致命的だった。焦りと恐怖と混乱と期待は離れ難いほど圧縮され、今にもこの場へ胃の中のものをぶちまけそうだった。
「お願い、見逃して」
あざといほど芝居掛かった懇願が、頭の周辺を飛び交っている。そんな声、出せるんだな。嘘だろう? 嘘だと知っているのに、そう思い込めない。
踏ん切り悪く逡巡してから、結局官憲の犬はシートの中で凍り付いた笑みを浮かべていたリンと向き直った。
「免許証を」
血の気が引いていく頭でミラーを見上げれば、そこにはやはり、警察官へ見せていたのだろう縋る眼差し。凪ぎがぴたりと止むように、リンの思考回路も動きをやめた。
財布から出された免許証を受け取り去っていく後ろ姿を、リンはぼんやりと見送っていた。
「リン」
平らに均したかのようなドーンの声が、体に染み渡る。
「ごめんなさい」
ラジオが欲しい。煙草が欲しい。どちらも手を伸ばせばすぐ得られるのに、彼は掴みにいく努力をしなかった。結局覆った沈黙が、車内を支配する。開け放たれた窓のおかげで、確かに外の世界と繋がっているはずなのに。ここから出られないという錯覚ばかりが身を苛んだ。それが喜ばしいことなのか、恐るべきことなのか、考える余力すらリンには残っていなかった。
作品名:8/9のバッドタイムズ 作家名:セールス・マン