8/9のバッドタイムズ
重たいウォークインフリーザの扉を、上半身の力めいいっぱい使って開くと、中へリンを押し込む。まず感じたのは、再び背中をじっとり湿していた汗を冷やす風。
「すぐ済むわ、すぐに」
ろくな抗弁もせず、リンは無体に従っていた。腕が入るかどうかと言うほどだけ開けた扉の隙間を体で隠し、ドーンはフリーザの前へ仁王立ちになった。
鼻を突く、古くなった氷と鮮度を失った肉の匂い。蛍光灯の紐を引っ張る真似はせず、薄暗い中でも更に濃い闇へ身を隠して彼女に協力した。まるで予め通告されていた避難訓練へ参加するように、リンの思考回路ははすぐさま状況へ適応する。ほんの少しイレギュラーなだけ。シチュエーションとしては、初めてでも何でもない。能天気なアイムホームと、付随するダーリンだかハニーだかの呼びかけ。慌てる女。促されるまま靴とシャツをひっ掴み、クローゼットやベッドの下へ身を隠す。
ただ一つ違うのは、普段ならばこの時が来ることを薄々察知し、いつでも狭い場所へ這いずり込めるよう神経を張り巡らしていることだった。いま屋敷へ踏み込んできたのだろう人物は、家主ではないのだという。彼女を囲っているーー想定としてはあったが、これまで自主的に頭から消去していた可能性を、今になってリンは直視してしまったーー男ではない、ならば。
分厚い扉へ背中をくっつけながら、息をこらして耳へ意識を集中させる。暗がりと、棚へ収納された肉が纏うような霜を全身に吹き付けそうなこの寒気が、知覚を研ぎ澄ます。足音は、着実に近づいてきていた。
「出迎えもなしかよ」
絨毯の敷かれた廊下からタイルへ、靴が境界を踏み越える。同時に聞こえてきたのは、予想していたよりもずっと若い男の声だった。己と同じくらいか、もしくは年下か。MTVとグラスで頭の中が精液溜まりみたいになったガキ特有の、だるく滑舌の悪い喋り口がキッチンに広がる。
「冷たいな」
「ボーマンは留守よ」
「知ってる」
余韻を残さぬ短い言葉にも頓着せず、相手は彼女の前を通り過ぎる。冷蔵庫を覗いたらしい。ポケットに入った瓶同士のぶつかり合う不穏な音が響く。
「出張だろ。怪しいもんだけど」
「セントルイスへ行くって言っていた」
腕を組んだのか、光を遮るドーンの肩が一層いかった。
「きっとそうなんでしょう」
「セントルイスね」
吹き出す炭酸ガスにも負けぬ勢いで、男が鼻を鳴らす。
「飛行機ですぐじゃないか」
声が寄ってきた瞬間息を詰めるが、次の瞬間リンは別の理由で更に背中へ不快を走らせた。
「待たせてもらおうか」
肉体、影、そして声に含んだ威圧感、全てを用いて男はドーンに覆い被さってくる。フリーザの床から正面の壁にかけ、新たな闇が暗がりを上塗りした。その色と、躍動感を失った肉の臭いが、何かを想起させる。凍えて、ひどく静まり返った心のまま、リンは状況を読むべく首を伸ばした。天井からぶらさがったソーセージが額へぶつかり、冷たくねっとりとした感触を皮膚に残していく。
「彼は明日になるまで帰らない」
そうしても良かったのに、むしろそうすべきなのに、ドーンはその場から一歩も後ずさろうとはしなかった。
「待つの嫌いでしょう」
「俺には今夜だって言ってた」
「そう」
「言ってたぞ!!」
フリーザの中にあるものというものを揺るがしそうな喚きが叩きつけられる。分厚い扉で阻まれていてもこうなのだ。剥き身で晒されているドーンのことを思えば感情が波打つ。それでも彼女は動かない。フリーザの中を守るため立ち阻むことで、同時にリンから自らの身を隠している。
彼女がなにも言わないのを良いことに、男は居丈高な口調を崩そうとしない。
「俺にそう言ったから、あいつは帰ってくる!」
今にも泡を吹きそうな勢いは、ドラッグが作ったものか。ジャンキー特有のつんと鼻を刺す匂いがこちらまで届きそうなほどだった。
「おまえに分かるかよ。大体どうして、ここにいるんだ」
「クリシーの世話」
静かに、だがきっぱりとドーンは答えた。
「彼、生の餌しか食べないでしょう」
先ほど男が彼女に迫ったとき感じた緊張を、リンはとっくに脱ぎ捨てていた。奴が高潔な女をフリーザのドアへ押しつけてファックすることはない。なぜか確信することができた。
「あのクソネコか」
リン自身が先ほど抱えたのと寸分変わらない悪意を以て、男は吐き捨てた。
「今度保健所に持っていってやる」
「ボーマンが怒るわよ」
「知った口きくな!」
またもや一気にかけ上がった激昂が、空気を震わせる。
「お袋みたいに指図しやがって! 何様のつもりだ、ただのお人形のくせに!」
「スティーブ」
恫喝に圧され、ドーンは半ば呻くように呟いた。それが余計、癇に障ったらしい。男の口振りは勢い込み、手に負えないほど熱を上げていく。
「ボーマンがおまえの事、何て言ってるか知ってるか? ミートパイよりコチコチの冷感症女だって。確かにヤったことなくても、それくらい分かるよな、見ただけで十分だ!」
「大声で喚かなくても」
ドーンの取りなしには、辛うじて抑揚が残っている。
「聞こえてるわ」
彼女の声が堅さを増していくにつれ、リンは胸へシュガー・レイ・ロビンソンの右フックを食らったような鈍い衝撃を感じていた。せっかくポッドで誘った自然体はすっかりご破算。耳に届くのはナンシー・シナトラのぶっきらぼうで怖いもの知らずな口振りではない。ハリウッドのドンに愛された娘は傷ついて、身を隠した部屋へ踏み込まれないよう懸命にドアを抑えている。彼女は痛みに涙を流しているのだろうか。それはないとリンは知っていた。だからこそ、冷えきった心がドライアイスのようにふつふつとあぶくを跳ねさせる。汗の乾いた背筋が痛いほど凍り付き、音を立ててへし折れそうだった。
「出てけよ。用済みもクソもないや、おまえなんか最初からいらないんだから」
高々と振り上げた男の手が、威嚇でしかないと知っている。けれどリンは、その腕が自らの顔から光を翳した瞬間、扉を開け放っていた。背中を押される動きにドーンがよろけなかったのは、このことを予期していたからか。視界の端に引っかかった彼女の顔は、大きく見開かれた目以外の全てがクールなままだった。
男は言葉での暴君ぶりが信じられないくらいひょろりとして、成人しているかどうかも怪しいもの。ジーンズとワイシャツの出で立ちは予想を裏切る小綺麗さで、ヒューゴ・ボスのモデルをしていてもおかしくないような優男だった。どう目して小さくなった虹彩は、シンナーでラリっているとは思えないほどまともなもの。それはつまり、へし折るべき歯がまだリンに残されているという事だった。
事態が飲み込めず、呆気にとられてぽかんと口を開けた男は、逃げることもできなかった。鼻面にパンチをお見舞いされると、もんどりうってその場に崩れる。痛みと大げさな出血を恐れるほど、喧嘩慣れはしていないらしい。裂けそうなほどまん丸くなった目尻に涙が膨れ上がり、ムンクの叫びもかくやと口が大きく開かれる。
作品名:8/9のバッドタイムズ 作家名:セールス・マン