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8/9のバッドタイムズ

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「嘘じゃない」
 まるで紅茶を注ぐ白磁のカップみたいにひんやりして見えて、彼女のこめかにみはうっすら汗が滲んでいた。頭を背もたれに預け、まだ笑みの余韻が残った口元から何かを放とうとし、結局噤む。ヘッドバンギングとはほど遠い揺らめきの末にもつれた髪の間から、紺色に近いような青い眼が覗いていた。息の音が長く穏やかになるのと反比例し、たった今どこからか帰ってきたかのようにその瞳は丸く見開かれる。いつもの鋭さは興奮に溶けて消え、頭蓋骨の裏まで見通せそうな明度。吐き戻しそうな胸の圧迫感に促されるまま、リンは身を乗り出していた。
 唇が触れてもドーンは拒もうとせず、その代わり積極的に打って出ることもしない。全くの想定外だとでも言うつもりだろうか。薄く開かれた唇は凍り付いたように動かなかった。
 やがて動き出したかさつき気味の上唇の動きといったら、舌のひらめきと言ったら。あからさまに戸惑い強張っている粘膜が慎重に探りを入れることすら、かっと頭を焼く。ままよ、とリンは肉の薄い頬へ手を伸ばした。マリファナを持ち込んだ時点で、こんな展開を期待していなかったという言葉に信憑性はなくなる。けれど同時に、リンは今この瞬間ですら、彼女にロマンチックなリビドーを抱くことが出来ないでいた。彼女の体はそそらない。リンが普段、ベッドで身繕いするのを許すのは、もっと肉感的で、何にでも甲高い歓声をあげる女の子だ。親元を離れて利子の高い奨学金でルーズベルト大学に通い、クラリネットを学ぶような。
「よしよし、子猫ちゃん(キティ)」
 潜めてしまった彼女の呼気を飲む合間に、リンは囁いた。そして、ひどい場違いさに困惑した。
 いざ行動に移した期に及んだ女を持て余すなんて、ハイスクールよりこっち一度もないことだった。ひどく沽券に関わる問題だと、頭の片隅で自らが喚く。何をやってるんだ、さっさと抱いちまえ。その声へ大いに腹を立て、唸り声すらあげながら、リンは結局声に従うしか術を知らなかった。

 骨ばった体をたぐり寄せようとしたまさにそのとき、またもや足下にまとわりつく感触、今度は浸食すらしてくる。
 一体どういう神経で、0インチの狭間に割り込もうとするのか。ソファの座面へ飛び乗り、自らの膝へ擦りつけようとする生暖かい毛の固まりは、ただでも短くなっていた導火線を簡単に焼き焦がした。
 弾かれたように勢いよく身を離すと、リンは執拗にまとわりつく猫の首筋を片手で摘まみ上げた。両手足が宙に浮いても、猫はびっくりしたかのように目を丸くするだけ。まるで先ほど、男のモーションを受け取るのに苦労していた女のように。
「この、くそ」
 叩いた長距離トラックの運転手にすらしてみせたことのない怖い顔を浮かべ、リンはまだ動き出すこともできない動物を振り子のように揺すった。出来ることなら家の外へ叩き出してやりたいところだったが、立ち上がるのが惜しい。思い切り遠くへ投げ飛ばそうと腕の動きを大きくしたとき、初めて飼い猫は潰れたような唸りを発した。
 濡れた唇もそのままにぼうっと様子を眺めていたドーンは、猫の体とリンの手が離れた瞬間はっと目を見開く。
「だめ」
 よい餌のせいでまるまる太り、大きく開いた四肢が短く見えるようなでぶ猫を、細い腕が絡め取るようにして捕らえた。爪を立てられてもお構いなしに、縋り付くことができる肉体を供する。キスを許した男にすら与えなかった堅い抱擁で、ドーンはふかふかとした毛足に鼻を埋めた。
「やめてあげて。いくらなんでも、かわいそう」
 そんなにこの猫が好きか。沈痛な面持ちで伏せた目すら獣に向けられたとき、ふとリンの頭に疑問が浮かび上がる。
「猫アレルギーなんだろ」
 はっと持ち上げられた顔に浮かんだ色を見て、リンは本人以上に後悔した。仲間内において、彼は何でもそつなくこなせることに定評のある男だった。特に女の心なら、襞の狭間まで手に取るように読むことができると思っていたのに。
 一頻り暴れた後、緩んだ腕から抜け出した猫は、さも憤慨したと言わんばかりに部屋の外へ消える。追いかけるようにして、ドーンも立ち上がった。
 あのくそ生意気な猫をノースカロライナまで蹴り飛ばした後、自らの頭をデイトナのシートに押し込んであるグロッグで吹き飛ばしてしまいたい。甘ったるいとはっきり分かるマリファナの匂いばかり残った沈黙に取り囲まれて、リンは思わず天を仰いだ。自惚れることなどとても出来なかった。
 何よりもしくじたるのは、この部屋を去った女とファックしなくてよくなったという事実に自らがとてつもない安堵を覚えていることだった。
 女が羞恥に耐えたよりも長く、けれど己に課した冷却期間よりは短い時間を、苦虫を噛みつぶした顔で堪えた後、リンもとうとう腰を持ち上げた。立ち眩みはポッドのせいだろうか。効きはしないと、あれほど頑なだった思い込みがあっけなく崩れる。
「ドーン」
 聞こえているかどうか分からなかったが、大声を張り上げた。返事はもちろんない。いつの間にか凍えそうなほど冷え込んでいた二の腕を擦りながら、キッチンへ向かう。彼女がそこにいると、リンは強固に確信していた。喜劇が繰り広げられた居間を除き、この屋敷の中で彼が知っている場所と言えばそこだけだった。
 予想は当たり、ドーンは白い照明の下にぽつねんと佇んでいた。入り口へ向けられた背は厳しく、シンクへ掌を突き俯くことで拒絶の意志を表す。
 どかどかと踏み込みながら、リンはもう一度名前を呼んだ。先ほどソファの上で感じた躊躇いなどどこかに消し飛び、伸ばした手は彼女の肉体へ触れたくて、例え低くても熱を求める。
「なあ。怒るなよ」
 本当は「怒っちゃいないよ」と甘やかす口調で言ってやるつもりだったのに、気づけばリンは相手の横顔を掬い上げるようにして見つめていた。これだけ不躾な視線に晒されているのに、ドーンはやはり唇を引き結んだままだった。薬局のカウンターで薬の計算をしているときと同じく、怖いほど真面目な無表情がそこにはある。違いと言ったら微かに寄った眉根だけ。そんな顔、女の子が作るもんじゃない。やりきれなくなっていっそ笑みすら浮かんでしまう。
「悪気はなかったんだ。そうだろ? お互いに」
 ぴくりとも動かない肩口を指先が掠める寸前、電子で作られた場違いな鐘の音が鳴り響く。天井にスピーカーでも付いているらしい。勢いよく音源を仰ぎ、ドーンは身を翻した。リンには聞き取れない壁のインターホン越しの声で、彼女は何かを認識したらしい。唇がぐっと奥深くへ潜り込むよう噤まれる。
「居間に……いえ、トイレに」
 明らかな狼狽を目元に刻み、自らリンの背中に触れて軽く押す。
「副社長様か」
「いいえ」
 ぱさつく毛先がちぎれるほど強く、ドーンは首を振った。
「けれど、彼は貴方がここにいることを喜ばないと思う」
 ふさわしくない忙しなさで辺りを見回すものの、当たり前だ、そんなに急げば思いつくものも思いつかない。結局彼女は、届く位置にあるドアの銀色をした取っ手へ腕を伸ばした。
「すぐに帰ってもらうから、お願い」