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8/9のバッドタイムズ

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「聞いたところで面白くも何ともない。しがない港湾組合の使い走りさ」
 組合員証を貰って以来、埠頭にある事務所へ足を運んだことなど一度としてないが、リンは女の子へ自己紹介するとき好んでその肩書きを使った。少し世の中を知っている子ならば、ぴんと来るものだ。浮かんだ表情は、相手の質を測るための立派なバロメーターになる。
 したり顔を浮かべるでも、砂糖菓子のような痴呆的笑みを見せつけるでもなく、ドーンは先ほど男に見つけられたピアスホールへ手持ちぶさたな指で触れた。
「この前言ってたわね」
「なんだい」
「甥子さんのこと。写真を見せてくれるんでしょう」
「ああ」
 店先で交わした、そんな些細な会話もきっちり覚えているなんて。驚きと照れくささが、煙と共にゆらゆら揺れる。
「そうそう。先月洗礼式が終わってさ。信じられるか、この俺が名付け親だぜ」
「何て名前」
「ジャッコ・アキヒロ・ストーン。妹に似たのか、こんなちびっちゃいやせっぽちでな。赤ん坊って、もっと丸々してるもんだと思ってたよ」
 財布を出そうと尻ポケットへ手を入れた瞬間、誇らしさと愛情の代わりに血管へ流れたのは気まぐれな思いつきだった。そのまま何も掴み出さない掌をソファへ引っかけ直し、反対の指でマリファナを。舌が干からびそうになるほどめいいっぱい飲んでから、リンはよほど親しい女の子の前でしか見せない悪辣なにやつきを唇へ広げた。
「見せてやってもいいが、条件がある」
「なに」
 少なくとも頭からはねつけはしない。斜め上をぼんやりと見上げたまま、ドーンは尋ねた。
「歌ってくれよ。何か得意の一曲を」
 振り向いた顔は、やはり何の感情も浮かべてはいなかった。目が僅かに潤んでいる以外は、ドラッグストアの店頭に立っているときと同じ。ピンで張り付けたかのように顔の肉は動かない。まだほんの少し残っていた紫煙を吐き出しながら、ドーンは相変わらずの薄い抑揚で言った。
「下手なのよ、本当に」
「ご謙遜を」
「悪酔いしたらどうするの」
「聞いてみなきゃ分からない」
 飛び出した冗談に、いつのまにか失っていた焦点を絞る。ドーンは笑っていた。ありったけの困惑を、細めた眦いっぱいに含ませて。
 そんなこと、何一つとして珍しいことではないはずだった。店で週に一本ずつデンタル・ガムを買ったとき――女ってのは夜寝る前、うがいをしたがるからな――スターバックスのテラス席で彼女をいじめる上司をおもしろおかしく形容したとき――よくもあんな、ベンツを顔面で受け止めたスクービー・ドゥーみたいな奴と毎日同じ空気吸ってられるよ――確かにドーンの表情からは緊張がほぐれていた。世の中に臆していない人間らしく、口元を手で隠すこともしない。彫りの深い顔立ちの中で、大きめの唇が引き上げられる様を目にするたび、リンはいつでもじわじわと這うようなもどかしさと心地よさを覚える。
「聞かせろってば」
 いつもなら的確な分量だけ現れて消える笑みを消したくなくて、声は気付けば駄々をこねるようなものになっていた。
「ほら、ちょっとでいいから。やってみろよ」
 更なる甘えた口調を作り出そうと喉の奥を絞ったとき、それまでソファへしなだれ掛かっていた身体が唐突に立ち上がる。目を瞬かせるリンを見下ろすドーンは、悪い予感に反して拒絶を纏ってはいなかった。
 そのまま無言で一歩踏み出せばコーヒーテーブルに臑を擦り、振るようにして伸ばされた手は一度リモコンを掴み損ねる。それでも何とかテレビを消し、画面を遮るようにして立つと、ドーンは救世主か何かのように両腕を軽く掲げた。背負った窓から差し込む昼過ぎの光が、均整のとれた輪郭を黒く透き通らせる。おかげで断言することはできないが、少なくともリンは、彼女がまだ顔全体にあの少しシャイな微笑が刷かれているように見えたのだ。
 堂々たる挨拶の後、彼女はそのまま天井を仰いだ。思案する時間はほんの少しだけ。すぐさま神経の通った長い指がリズムを刻み始める。
「『あなたはいつでも、私のために何かを手に入れたって言い続けてる』」
 節回しは、歌手のはすっぱを上手に真似ている。けれど声の張りはどうしても抑えることができず、低いながらよく通る音程はぶちぬきの窓まで走ってガラスを震わせるかのようだった。
 何が下手くそだ。ソファに頬杖を付きなおしながら、リンは内心ぼやいた。立派なもんじゃないか。バナナラマを三人束にしたところで、彼女よりも音程の乱れを隠せないに違いない。
 ところで、今彼女が朗じているのはナンシー・シナトラの『にくい貴方』なのか、それともシェークスピアの『ハムレット』なのか。僅かとはいえグラスが回っているせいか、リンにはさっぱり判断することができなかった。
 別にどちらでもかまわない。自らが作り出してメロディに心をゆだね、身を揺すっている。いつの間にか落とされた瞼の内側で、陶酔に浸っているのだろう。その原因が歌であろうともマリファナであろうとも、今のリンにはどうでもよい話だった。もしもドーンをクラブへ連れていったならーー仮定の話で終わってしまうのは、そもそもリンは彼女と夜に出かけたことすらなかったからだーーきっとこうやって踊るのだろう。例えライトがいくら点滅し、狭いダンスフロア内に流れるリズムがどれだけ激しいものであったとしても。ドーンは歌い踊る。絶えず身のどこかを動かし、それでも決して熱を上げたりはしない。指が刻む途切れることないリズムに身を任せ、静まり返ったエリー湖の底でたゆたう青い水草のように。
 歌うことで自らに閉じこもった彼女の瞳は、文字通り何も映そうとはしなかった。緩いグラスの薬効か、真珠色をした光がしなる体へまとわりつき、残像を柔らかく縁取る。リンは不意に納得した。彼女は、エンターテイナーではない。生粋のアーティストなのだ。
 ドラッグのおかげで瞬きを忘れ、半開きの唇で凝視する観客に、ディーバは腕を降ろすことで終幕を示す。最後の一息がほっと吐き出され、胸の前で組み合わされた手がきゅっと握り合わされる。軽く首を傾げ、にこりと顔いっぱいに広がったのは、これまで見たことのないほど満面のはにかみと、充足だった。細められた目尻の皺、ちらりと覗く小粒の真っ白な八重歯を見せつけられては、リンもそれ以上アンコールを望む気にはならなかった。
 しばらくぼんやりと笑顔を凝視してから、リンはようやく自らが間抜けな振る舞いに及んでいると気づいた。慌てて身を起こし、さっさと戻ってきた彼女に向き直る。
「ブラボー、ブラーボー」
 乱暴な拍手も舌がもつれる喝采も、彼女に不興を買わせることはなかった。ははっ、と弾むような息と共に笑みへ照れを混ぜ込み、ドーンは再びリンの隣へ腰を下ろした。先ほどよりも距離は縮まり、二人の間へ割り込むスペースは人一人分もなかった。
「良かったぜ。本物よりもずっと色っぽかった」
「人前で歌ったのなんて久しぶり」
 まだ幾分上擦った口調でドーンは言った。ミネラルウォーターの代わりに差し出されたグラスを唇へつけ、ばたんと乱暴にソファへ身を倒す。
「プロデューサーには声域が狭いし、節の取り方も下手だって散々言われたわ」
「そりゃあそいつの見る目がなかったんだ」
「お世辞でも、ありがとう」