8/9のバッドタイムズ
ほんの僅かに勢いの弱まった煙と、比例して広がる巻紙の焦げ痕をもう少し見つめてから、ドーンは膝の上の本を閉じた。わくわくしているリンの指からジョイントを抜き取り、唇に持っていく。堂に入った吸い方だった。素人臭さなど微塵も見られず、かといって本物のジャンキーでもない。普段の呼気と深呼吸の合間にある、淡泊な吸い込み方で一服。音一つ立てず吐き出して、もう一度。その後は薄く目を閉じて、体に毒が回るのを待ちかまえる。静かにソファへ身を預ける姿は、それでもやはり哲学的瞑想へ耽っているかのように、最初から指の末端まで神経が行き届いていた。
「マルヴァーン以来だわ」
落胆したかの如く長々とした吐息で肺の全てを吐き出した後、追いかけるようにして言葉が頭を出す。
「卒業パーティーでやったのが最後」
「マルヴァーン?」
背もたれへ肘を付き直すときも、リンは日焼けと無縁の瞼から目を離せないでいた。
「それ、ニュージャージーのどのあたりだ」
「イギリスよ」
絡み合っていた上下の睫がするりとほどけ、酩酊した、少なくともそんな気分でいる瞳が、スローモーションでこちらへ流れる。
「母が、ロンドン生まれなの」
思った通り、煙の向こうから現れた彼女は自らへ魔法を掛けていた。友人たちの勧めに従わないで良かった。リンは改めて自らの審美眼を誇った。女の脚と心をあげっぴろにするには葉っぱよりも粉がいいと言った阿呆ども。掌にラップの包みを握らせようとする飲み仲間の手を振り払い、彼はその年齢にふさわしい小馬鹿にした視線を投げかけたものだった。ロンドンで仕込まれた本物のレディに、行き過ぎた高揚もせかせかした貧乏揺すりも似合わない。鼻頭についた白い粉などもってのほかだ。ゆったりとした酔いにたゆたい、ドーンは暗闇の中で息をつく。生成色の革へ広がる髪は、夜明け(dawn)前に一際暗くなる空を閉じこめたかのように黒々と艶めいていた。
相変わらず顔の表面に喜怒哀楽が出てくることはなかったが、問えば普段のように黙りこくったり思案したりせず、滑らかに答えを返してくれる。ロンドンっ子か。20歳まではね。訛、隠してるのか、巧いな。そっちのほうが楽ですもの。知っていて? この国じゃあクイーンズ・イングリッシュは生意気だって嫌われましてよ。
「言われてみれば、そうなんだよな」
天井を仰ぐ尖った顎から、すっと伸びた喉元までを鑑賞しながら、リンは受け取ったジョイントをくわえた。そのまま脱脂綿のフィルターがつぶれるほどの笑みを浮かべる。
「上品だ。ヤンキーの押しの強さじゃない。花で例えると、薔薇でもオダマキでも、ましてやマグノリアでもない。そうだな、百合の花みたいに」
「やめて」
顔を背けることで、ドーンは歯が浮く台詞の続きを拒否した。唇に浮かんだ微笑みは純粋な照れと困惑で、自惚れなど一滴も見つからない。だからリンは図に乗って、頬へ沿わせた腕の中するりと言ってのけた。
「凛としてるんだ。白い。強い。揺るがない」
いつのまにか彼女の膝から滑り落ちていた詩集が、二人の間を阻んでいる。リンはその分厚くかび臭い本を取り上げて、乱暴に床へと投げ出した。僅かとはいえグラスが利いているのか、叩くような音高い天井に跳ね返って増幅する。持ち主のドーンがなにを考えているのかはわからなかった。横顔に掛かった髪を払おうともしないから、表情すら見えない。けれど少なくとも怒りを覚えていないことは、先ほどまで本があった場所へころりと転がった手が表現する。
同じように、獣のなめし革特有のべたつきに囚われた自らの手指は、彼女の僅かに節が目立つ指のすぐ側にあった。手の力を抜けば、触れることができるだろう。言い訳としては完璧。体が伸びるのは、ラリっているなら当然のことだ。
皮肉なことに、自らが褒めそやかした彼女の出自と気高さは、口にすることで足かせとなり動きを阻む。マリファナの味を知る女なら、爪先への愛撫などすっ飛ばして首筋や耳に指を這わしても問題がないに違いない。普段の彼ならば、間違いなくそうしていただろう。
イギリス生まれ。いったいそれが、何だと言うのだ。心の中でどれだけそう唱えても、何故か彼女に触れるのが気が進まなかった。女性らしいなだらかな額から、彫刻のようにすっと伸びた鼻へと続くラインを目で辿るたび、指先は怖じ気付いて丸まってしまう。
「そんな褒められるような人間じゃない」
せっかくのハイになれる建前も忘れ、らしくもなくうじうじと考えていたリンに投げかけられた言葉は、煙など簡単に扇ぎ払ってしまうほど部屋に響く。甘皮のない爪から視線を剥がした男へ気だるげな動きで顔を向けると、ドーンは罰を受けているかのようにゆっくりと言葉を放った。
「私は負け犬なの」
よりによって一番似合わない形容が真顔で告げられ、リンは取り繕うことも出来ずに困惑した。
「負け犬?」
その瞬間だけ目をそらし、ドーンは頷いた。
「マルヴァーンを出た後、両親は当然、私が大学へ行くものだと思ってた。けれど私は、歌手になりたくて」
ゆっくりと持ち上げられた手へジョイントを掴ませれば、先ほどよりもずっと大きく肺を膨らませ、長い時間体内へ留めるような含み方をする。血という血に効果が回ったのを確認するまで、息をつかない。話の続きとなると、更に時間を要した。急かすような真似を、リンはしなかった。彼が思い浮かべた分かれ道の前へ立っていると、彼はしっかり自覚していた。
「オペラとか、古典声楽家志願なら納得したでしょうけど、私が好きだったのはピーター、ポール&メアリーにシルヴィ・バルタンとか」
「えらい懐メロだな」
「父がレコードをたくさん持っていたから」
自由な方の手を持ち上げ、分かっているとばかりに振る。
「学校の寮にも持ち込んで、毎日聞いていた。変わり者扱いされたわ」
変わり者の姿を、リンはありありと想像することができた。レコードプレイヤーの前にぺたりと座り込み、明るいポップスに耳を澄ませる少女。部屋の隅で一人きり、くだらない噂話に花を咲かせる同級生など見向きもしないで。ブレザーの腕は音源を抱きしめているのだろう。まるで世界にそれ以外の友達がいないかのように。
「だから高校を卒業したその日に家を出て、レコード会社の門を叩いた」
常の鋭い眼光はなりを潜め、眼球はプティングのようにかろうじて固形を保っているという状態。それはリンが望んでいたものと、ほんの少し形が違った。本人の言葉を信用すれば、彼女がグラスを飲むのは数年来。いくらポーズを覚えていても、肉体の方は薬効を思い出していないらしい。悪いことを覚えたばかりの初な女子高生のように、いつの間にかドーンの身体は、ソファへ張り付いたかのごとく弛緩していた。
「結局才能なんかなくて、トップレスで歌えばもう少し稼げるって言われたから、2年目かしら。逃げ出したけれど」
昔語りは微笑みを浮かべて行うべきだというルールを、無視しているのか知らないのか。にこりともせず言って、それから今にもジーンズを焦がしそうだったジョイントを、ゆるゆると目の前の男の鼻先へ持ち上げてみせる。
「あなたは」
「俺?」
受け取りざま、リンは肩を竦めた。
作品名:8/9のバッドタイムズ 作家名:セールス・マン