8/9のバッドタイムズ
山盛り装った缶詰を葺くよう赤身を上へ敷いてやる。特に有り難みなど感じていなさそうな顔で、猫は足で蹴り出された皿へしゃなりしゃなりと近づいていく。ふんと勿体ぶって臭いを嗅いでから、ようやく顔を皿に埋めた。
「快適な部屋と贅沢な飯」
コロナの瓶口をしゃぶりながら、リンは大仰に嘆いてみせた。
「俺だって猫になりたいよ」
「でも、彼は可哀想」
流水の音は必要以上に長い。ドーンは猫嫌いの宣言通り、汚れていないはずの手まで揉むようにしてキャットフードを洗い流している。
「去勢されて、家の中に閉じこめられて」
「こいつオスか」
食欲に集中し油断した尻尾を掴んで持ち上げれば、ぎゃっと悲鳴を上げて部屋の隅に逃げる。気に障るものは引っ掻くべしという、猫の一番大事な本能すら忘れさせる安穏。
「確かにタマを取られるのはごめんだな」
たくましさも何もない。24時間、機械で室温が管理されているこの屋敷では、季節すら忘れてしまったことだろう。夏なのに寒気でも覚えているような震えを体に纏い、猫は壁へぴったりと身を押しつけている。伸ばされた手に向けて発する高い唸り声は、まさしく野生が放つ最後の咆哮だった。
「あまりいじめるのはやめてあげて」
訴えにふさわしくない、ひどくゆっくりした口調でドーンは言った。
「臆病なのよ」
「箱入りな訳だ」
「それもあるけれど」
黒々と太く固そうな睫が、ゆっくりと瞳から光を奪う。
「自信を奪われたから。自分がオスなのかメスなのかも分からなくなって……気持ち悪いわ」
「そんなもんさ、何かを犠牲にしなくちゃならない。こんないい暮らしをするためにはな」
「あなたはできる?」
振り向いた先に感情を探し出すのは、やっぱり難しかった。一体全体、どうしてこんなシリアスになっているのかさっぱり分からなかった。差し出された手へ猫がすり寄ってくることがないように、彼女もまたシンクへもたれるでもなく、かと言ってその場から立ち去ることもせず、返事を待ちかまえている。全てを見通しているかのように射抜く瞳は、無造作に流した前髪に隠れてもその鋭さを失わない。
「無理だな」
彼女の綺麗な目にばかり気を取られ、とうの質問に対する感情など微々たるものでしかない。いつまで経っても警戒を緩めない猫に飽き、リンは立ち上がった。
「そんなことする位なら自分で稼ぐよ。タマナシだなんて、恐ろしい」
傍らをすり抜けざま横目を向けたとき、ドーンがまだ議論を続けたがっていることはありありと知れた。彼女がもっと安っぽい女なら、薄く開いた唇へ人差し指を押し当て囁いてやるだろう。Hush、とことさらきっぱり、それでいて柔らかく前置きしながら。「そんな小難しい話、スターバックスですれば十分だ」。
もっとも利口な女に、ボディタッチなど百害あって一利なし。結局彼女は触れられるよりも先に再びミネラルウォーターを取り上げ、微笑もうとした。そう、口角は確かに軽く引き上げられていたが、それが強い意志で作られたポーズであることなど一目瞭然のぎこちなさで。
「あなたの言うことが正しいわ」
巨大な画面を見たときから予想していたが、ケーブルテレビのチャンネル数も桁違い。家主が加入しているのはCNNから中国系番組まで様々なものだった。リモコンのボタンを埋めれば埋めるほど、自らの富を誇示できるとでも思っているのだろうか。
普段ならば真っ先にアダルトチャンネルを探すところだが、隣で読書に耽っているドーンはまるでセックスも知らなさそうな顔。仕方なく、なおざりのザッピングで遭遇したMTVで腰を据えておく。バックストリートボーイズの新曲プロモーションに、女が意識を向けることはやはりなかった。
テーブルに投げ出してあった紙袋を取り上げ膝で抱えると、リンはソファの背もたれへ乱暴に身を投げ出した。
「何読んでるんだ」
「言葉よ」
ドーンの口調は、相手が既に本のタイトルへ目を通していたと知っているものだった。
「つまり……詩ね」
「面白いか」
「あまり」
即答に思わず頬を緩めれば、何故、とだけ返される。目はあくまでページへ落ちたままだったが、その質問はいくらでも回答が見つかりそうだった。
「だってな」
ここが分かれ道、どんな一言を呟くかで先が変わる。あやすようにして紙袋を膝で揺らしながらリンは、おそらく本人が思っている以上に暗く見られてしまう横顔を鑑賞し続けた。きっと、気づいている奴は世の中でもほとんどいないに違いない。例えば、癖のある髪に隠された耳朶、曲線を描く軟骨に、厳ついほどのピアスホールが残されていることを。
「難しい顔してるぜ」
というか、そもそも何かを変える必要などあるのだろうか。
巌のように確たる姿勢は、素面じゃ手に負えない。結局リンは紙袋へ手を突っ込みながら、自らが投げかけた問いを投げ捨てた。
取り出した紙巻きはジョイントと名乗るのもおこがましい代物で、半分以上がほぐしたラッキーストライク。しかも肝心のポッドとて、効果など全く期待できそうになかった。売人をしているトレヴァーが浴室に干してあったのをいくらか持ち出してきたのだが、日頃有名な品質の悪さが今回ばかりは味方する。こんなものを盗まれたといって怒るのは、部屋へ入って息をしたから酸素の代金を請求するのに等しいと、調停を引き受けることになった上の連中なら言うだろう。
巻きの緩い紙を追うドーンの目に嫌悪は見られない。散々ともったいぶった間を空けてから、リンはジーンズのポケットを探った。
「禁煙だなんて言うなよ」
「灰さえ落とさなければ」
軽く肩が持ち上げられる。
「あと、火事にも注意して」
親にも最近見せたことがないほどはっきり頷いてやってから、ジッポーの蓋を親指で弾く。オイルが少ないのか、灯された炎のしずくは縁がひどくおぼろげだった。巻紙と、乾燥した葉がじりじりと焦げる。
まず一服大きく吸って、肺に溜め込む。思った通り、まったりと喉を乾かす甘さはろくに感じない。ラッキーストライクの辛いタールばかりが紙ヤスリのように粘膜を擦る。本当の煙草でするように、空中へ丸い輪をぽかりと吐き出すことすらできた。
細々と、だが途切れることない紫煙を立ち上らせるまで火種を大きくしたジョイントを差し出したとき、ドーンはほんの少しだけ逡巡した。
「言わないって」
誰にも。これはここだけの話。言外にそう含めたら、ほんの少し眉間に皺を寄せて首を振る。
「今朝、何も食べてないから」
たった一服ではまともに酔えないマリファナなどなくても、思わず目を見開いてしまいそうな台詞。少なくとも、何も知らないおぼこ娘ではなかったわけだ。
「大丈夫だって、ほとんど煙草だから」
同じ場所で佇む落胆と興味をまとめて蹴り飛ばし、リンは残っていた最後の煙を喉から押しやった。
「悪酔いなんかしない」
おそらく自らの表情筋は、緩みなど何一つ見られないに違いない。
作品名:8/9のバッドタイムズ 作家名:セールス・マン