8/9のバッドタイムズ
砂利を踏んで戻ってきた警察官の表情に厳しさは見られない。免許証を返しざま、男はもう一度じろりとリンの風体を見下ろした。
「三週間前に出所したばかり?」
「運転技術に問題があった訳じゃない」
後ろの女を真似、出来るだけ哀れっぽさを誘う声をあげる。
「もちろん、忘れてた訳でもないし」
「法廷侮辱罪で二週間」
その余計なことばかり喋る口を今すぐ塞いでやろうか。そう怒鳴りつけることは辛うじて堪えた。男に悪意はない、職務熱心なだけで。もっともそれこそが、苛立ちをかき立てる要因なのだが。
リンが車を飛び出す寸前になって、ようやく男は車を軽く叩いた。スーパーマンのように非の打ち所のない顔が、本人は寛大さを表明していると思っている微笑みで歪む。
「何なら先導しようか」
「結構ですよ。市立病院はもうすぐだ」
恐らく同じくらい引きつっているのであろう笑顔ではねのける。肩を竦めた後ろ姿がパトカーへ戻るよりも早く、リンはアクセルを踏み込んでいた。
だんまりの中からドーンが姿を現したのは、後5分も走らぬうちに目的地へ着くという頃になってからの話だった。
「トラブルに巻き込まれたくない」
鏡越しにじっと見つめられ、リンは堅い動きで身じろいだ。
「そうよね?」
「ああ」
偽ることなく頷く。
「けど、大したことないや。病院につれていくだけだ」
「いいの」
ドーンは強く首を振った。
「私が。降ろしたら、そのまま帰ってくれればいい」
「そんなことするような男に見えるか?」
けたけたと、甲高くリンは笑い声をあげた。
「ひでえな、おい」
対応として間違っていることは百も承知だった。だがどういう形であれ、吐き出さなければもう耐えられない。顔から体からぐちゃぐちゃに汚れて顔を青くする男を膝に乗せ、自らも散々にとしゃ物を被ったまま、それでもひたと哀れな相手を見据えている女の姿。まるでピエタじゃないか。リンはそのとき、ようやく認めた。認めた瞬間、この光景を否定したくてたまらなくなった。けれどそれが不可能だと知った今、笑いが止まらなくなったのだ。笑って、笑って、溜め込まれた全ての感情を体内に追い出した後、リンは自らが泣きたいのだとようやく知った。
もちろん、彼は涙なんか一滴も流さなかったし、ドーンも何も言わなかった。今この状況で、何か新たなことを成すなんてふさわしくないと、二人は重々理解していたのだ。
文字通り蹴り出すようにして病院前へ男を置き去りにしても、ドーンは何も言わなかったし、車から降りようすらしなかった。いつまでも汚れたシートの上で身を縮めているので、リンは帰路の途中、マクドナルドの駐車場で一度車を止めた。
「何飲む」
「いらない」
「いいから飲めよ」
「じゃあ、ダイエットペプシ」
「分かった」
車のトランクに入れてあったシャツが至って普通の白いワイシャツであったことに安堵する。窓から押しつけると、彼女が何か言う前に後部座席のドアを開いてしまう。「もうそんなところにいる必要ないだろ」
返事を見届ける前に、リンはさっさと店の中へ足を踏み入れた。
ペプシがなかったのでコークを持って戻っても、もちろん彼女は文句なんて言わなかった。渡されたシャツを羽織った彼女は、助手席に身を埋めている。膝に乗せたカップのストローには、数度口を付けていればいい方だった。
屋敷に戻るか、と尋ねれば、そうする、と静かな頷き。そのまま残ろうかという提案は拒絶された。
「彼に電話して、それに、帰ってきたら話をしたいから」
それだけ言って、後は窓の外を流れる景色へ身を任せている。
沈黙は好ましくない。だが折られたシャツの袖から見える彼女の腕がすっかり弛緩しているのは救いだった。午後も終わりを迎え、少しずつ角度を落としている太陽が、フロントガラスに丸く反射する。州道は車も少ない。ドライブはすぐ終わりを迎えるだろう。
酸っぱいようなすえた匂いは、全開にした窓のおかげで少しずつ薄まってきている。シートは惨憺たる有様だろうが、女を責める気はなかった。そもそもリンは、最初からドーンに怒りなど抱いたことなど一度としてなかったのだ。
彼女を目にするたび感じるもどかしさは、確かに不穏な色を纏っている。けれど、今のままでいい。下手に深入りしない方がいいときもいっぱいあると、彼は仕事上よく知っていた。たとえそれが、自らの感情を対象としているときだって、それは変わらない。冷静さを取り戻した頭は、納得への道を見つけて歩み始めていた。
「さっき、ボーイフレンドなんて言ったけれど」
それなのに、傍らからゆっくりと流れてきた声が、全てを台無しにする。
もう二度とパトカーなんかに捕まらないという名目の元、リンは真正面を睨みつけた。まっすぐな道、信号はどこまでも青く続いている。このまま家へ帰るまで、車が止まることなど二度とないだろう。
「とっさに思いついて。悪気はなかったの」
そのまま溶けてしまいそうな深い吐息が、車のエンジンをかき分ける。むしろ、呼吸だけではない。彼女の身じろぎ、流れた髪が肌を擦るうねり、彼女の作る全ての音だけがリンの耳へ届けられた。
「怒らないで……でも、怒るかもしれないけれど、私、あなたのこと」
紙コップを抱えた手に滲むのは水滴だろうか、それとも汗か。濡れて午後の夕日に染まることで、固く突き出した関節の皮膚は色を抜いたような白さを際だたせていた。
「好きよ」
背けられた顔を覆うのは日差しの作る影であり、波打つ髪であり、リンの位置からは到底窺い知ることができなかった。
このゲロ臭い痩せぎす女を抱きしめることに何の苦もない。そうしたいとリンは心から思った。けれど、それで終わり。どこをどう間違ったのか、彼は普段ならたやすく女に与えるものを、ドーンと共有することが出来ないと既に気付いていた。
ハンドルがへし折れそうなほど握る手に力を込める。胸の奥でぐうっと膨らんだ塊を飲み下し、完全に消え去ってからゆっくりと口を開いた。
「けどな、ドーン」
世界で一番真剣に耳を澄ます女の体は、微かに震えている。リンはその肩に触れようとはしなかった。霞掛かったように見える青信号の点滅へしかと目を凝らす。
「俺はきっと、お前にゃ勃たないよ」
本当にいい女を前にして勃起できるなんて、キリストかテッド・バンディのどちらかでしかないのだ。
ほんの僅かな静寂の後、ドーンはふっと笑った。
「なに、それ」
微笑を発露とし、そこから声が弾ける様は、確かにどこのクラブでも拾ってくることができそうなほどありふれていた。幾ら目元がくしゃりといびつになっていたとしても。
泣くときも笑うときも同じような顔の歪め方をする、彼女もそんな女の一人だった。それが分かって良かったと心の底から思いながら、リンはアクセルを強く踏み込んだ。
普段は店の中に佇む女を、今日は逆に男が見送る。後ろ姿がドアの向こうに消えても、リンは特に不安を感じなかった。何せ彼女には、貴婦人の血が半分流れている。世間体を気にする紳士相手なら、きっと自らよりもずっと上手くあしらうことができるだろう。
作品名:8/9のバッドタイムズ 作家名:セールス・マン