怨時空
桜庭は何時開放されるのか分からず、接待用のお追従笑いを浮かべてはいるものの、苛苛と時を過ごしていた。再び携帯が震えて、しかたなく、山口先輩に一礼してバーの外に出た。
「もしもし、桜庭です」
香子の叫ぶ声が響いた。
「助けて、お願い助けて。怖いわ、桜庭さん、早く来て」
「おい、何があったんだ。いったい何が起きた」
「奥さんが、庭のいる。刃物を持っているみたい」
「馬鹿、それならちょうど良い。すぐに警察に電話しろ」
「もうしたわ。でもパトカーがまだ来ないのよ」
「子供はどうした」
「みんなで屋根裏部屋に隠れているの」
「そう言われても、今、大事な接待の真っ最中だ。抜け出すわけにはいかない」
「だって、今、貴方の奥さんがナイフみたいな物を持って、庭をうろついているのよ。私たち親子が殺されかけているのよ。それより、接待が大事だと言うの」
そう言われれば断るわけにはいかない。分かったと言って電話を切った。ディレクターの望月が今夜は徹夜だと言っていたのを思い出したのだ。すぐさま会社に電話を入れた。
「おい、望月、すぐにシャンテに来てくれ。三丁目のシャンテだ。どうせ、仕事は部下に任せて遊んでいるんだろう」
「あれ、桜庭さん。今日は山口先生の接待じゃなかったの」
「その接待中だ。お袋が急病で病院に担ぎこまれた。俺はすぐに駆けつけなければならない。シャンテにいる山口先輩のお守りはお前に任す。頼んだぞ。繰り返すが、山口先輩には、俺のお袋が緊急入院したと言うんだ、分かったな」
桜庭は、山口先輩が売れていない頃、お袋が何かと面倒をみていたのを知っている。売れた今では、そんなことおくびにも出さず、知らん顔を決め込んでいる。そのお袋のことを持ち出せば、急に帰ったと知っても怒らないと踏んだのだ。
桜庭はその場でタクシーを拾った。バーに引き返せば、入院先を聞かれる。運転手に一万円札を握らせ、狛江まで急がせた。さすがに零時を過ぎているものの、首都高に乗るのまで思いのほか混んでおり、いらいらとして何度も時計に目をやった。
タクシーを降りると、3台のパトカーの点滅するライトが桜庭の目に飛び込んできた。ちょうど、泉美が警官に引かれて一台のパトカーに乗り込むところだった。桜庭は、泉美に気付かれぬよう電柱の陰に隠れた。
パトカーが去っても、隣近所の住人が鵜の目鷹の目で玄関のあたりを窺っている。城島は煙草を取り出し、煙草に火をつけた。取り返しのつかない事態なら、警官が立ち去るはずはない。香子も子供も無事だと確信した。次第に野次馬達も諦めてねぐらに戻り始めた。
桜庭がドアベルを押し、家の中に入ると、香子は玄関に立って待っていた。その腰に、二人の子供が抱き付いている。桜庭の出現に、香子は子供の存在を忘れたようだ。一人、飛ぶように桜庭に抱きついてきた。そしておいおいと泣いている。
二人の子供はあっけにとられ、戸惑っている。桜庭は、微笑みかけ、そして手招きした。二人の子供も桜庭に抱き付いてきた。怖かったのであろう。
「よしよし、もう心配ない。おじさんが来たのだから」こう言うと子供はしゃくりあげながら泣き始めた。
その日、子供達を寝かせつけ、二人は愛し合った。今までにない激しい抱擁だった。香子は狂ったように桜庭を求め、桜庭はそれに応えた。異常な興奮が二人を包んでいる。ライトの点滅がまだ二人の網膜から消えてはいなかったのだ。
呼吸を整えながら、桜庭が言った。
「あいつは墓穴を掘った。刑事事件を起こせば、離婚には不利だ。たぶん」
「そうね、離婚届に判を押させるには良いチャンスかもしれない。嬉しい。これであなたと一緒になれるかもしれない」
「ああ、明日、弁護士に相談してみるよ」
「ええ、そうして」
「ところで、二人とも可愛いじゃないか。確か上の子は小学4年生だったよね」
「ええ、香織っていうの。下の子はまだ3歳、詩織よ。二人とも可愛いの。女の子でよかった。私、男の子は嫌い」
「しかし、子供って本当に可愛いな。詩織ちゃん、僕になついて、膝を離れようとしなかった。子供達ともうまくやれそうだ」
「ええ、私もそう思うわ。ふふふふ」
しばらくして香子が聞いた。
「ところで、中条は、どんな学生だったの。大学時代のことは少しも話してくれなかった」
「うん、いい奴だった」
こう言って、桜庭は目を閉じた。過去の厭な思い出に触れたくなかったのだ。びくびくして次の質問を待ったが、香子は黙っている。ふと、耳を澄ますとすーすーと寝息が聞こえた。桜庭も睡魔に襲われ、夢現(ゆめうつつ)のなか、あの事件の情景が浮かんでは消えた。
共犯者の中条翔とは大学の演劇部で知り合った。桜庭がずぼらで大雑把な性格であるのに対し、中条は几帳面で神経質、どう考えても水と油だった。しかし不思議な縁で結ばれていたのか、或いは互いに片親だという共通項があったからか二人は妙に気があった。
大学の4年の夏休み、最後の公演も終わり、二人は九州に卒業旅行に出かけた。その目的はナンパである。桜庭も中条もそちらの方は経験豊富だったが、今回の趣向はナンパした女性の数を競うというものであった。
ルールは簡単だ。駅で降りると二手に分かれる。女性をゲットしたか否かは、ディナーに同伴して互いに確認しあうという方法だ。肉体関係が出来れば、当然態度に出るし、ディナーの後にホテルに行く場合もそれと分かる。
成果は上々だった。何度も失敗はあったが、中条は一週間で三人、桜庭は5人の女をものにし、勝負は桜庭が勝ち、中条から10万円をもぎ取った。いずれにせよ、東京から来た学生というフレーズが、九州の女性には魅力的に聞こえるらしい。
最後は熊本の海辺のホテルに宿泊した。お互い、女に気を使うナンパに疲れ果てていたし、終いには数を稼ごうと、顔やスタイルなどお構いなしでナンパしたため、女に辟易していた。ゆっくりと残りの休暇を過ごすことにしたのだ。
久々に夜更かしもせずに寝たため、二人は朝早めに目覚め、海岸を散歩しようと部屋を出た。エレベーターを降りるとラウンジには誰もいない。桜庭はソファにどっかりと腰を落とすと新聞を広げた。中条はフロントのカウンター内に入って、中を物色していた。
その時、自動ドアが開いて、一人の少女がおどおどしながらホテルに入ってきたのだ。水玉のワンピースに運動靴を履いている。体は細く華奢なのだが胸はたわわに実っていた。顔にはあどけなさが残っている。中条がようやく少女に気付き、少し躊躇していたようだが、カウンター越しに声を掛けた。
「やあ、おはよう。君も早目に起きちゃったの。ここに泊まっているんだろう」
少女はしばらく俯いていたが、小さな唇を動かした。蚊の鳴くような声だ。
「いいえ、家出して、歩き続けて、昨日、眠っていないんです」
予期せぬ返答に、中条はうろたえ、次ぎの言葉を捜していたのだが、なかなか思いつかない。桜庭が引き取った。煮え切らない女には高飛車に出るに限る。
「家はどこなんだ」
「八代です」
「お前、高校生だろう」
この言葉には有無を言わせぬ響きを込めた。少女は消え入るような声で答えた。
「えっ、ええ……」