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怨時空

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 桜庭は、はっとして泉美を見詰めた。近藤と同じことを言っている。動悸が高鳴った。息せき切って聞いた。
「女房が殺したって、どういう意味だ。お前にも言ったはずだ。あいつは、俺の見ている前で、窓から飛び降りたんだぞ。香……」
慌てて言い直した。
「奥さんが殺したわけじゃあない。自殺したんだ。俺はそれをこの目で見ていたんだ」
泉美は首を左右に振って、口を開いた。
「中条が言ってたけど、あの女は自分の思い通りに人を動かすことが出来るんですって」
「そんな馬鹿な。そんなこと出来るわけがない」
桜庭は中条の死に行く姿を思い浮かべた。彼は床を這うように窓の所まで行った。そして右足を開け放たれた窓にかけた。そしてからだ全体を持ち上げて飛び降りた。
 しかし、どの動作を思い出しても、どこかぎこちないのである。どうぎこちないかを説明するのは難しい。ふと見ると、泉美がどこから出してきたのかピーナッツを次々と口に放り込んでいる。頬を膨らませもぐもぐと噛み砕いている。
 恐怖によるストレスが食欲を刺激したようだ。ピーナッツを口に含んだまま、くちゃくちゃと音を立てながら言った。
「二人の子供も、あっという間に継母べったりになって、父親を疎んじるようになったんですって。考えられる、そんなこと。愛情を注いできた子供達との絆が跡形もなく消えてしまって、むしろ子供の視線が怖いって、翔ちゃんは漏らしていた」
「しかし、それだって、こう考えることも出来る。子供は自分を本当に愛してくれる人かどうか本能的に分かるんだ。まして子供にとって母親の存在は大きい。父親との絆って言うけど、そんなもの本人が考える程たいしたものではないんだ」
泉美は桜庭の言葉など聞いていない。
「そうそうこんなことも言っていたわ。奥さんは、例えばお皿洗いをさせようと思えば、翔ちゃんを睨むんですって。その視線には決して逆らえないって。恐ろしい。本当に恐ろしいわ。そんな人間がいるなんて」
「つまり、中条は自殺するように仕向けられたってわけか」
「そうよ、そうとしか思えない。3億の保険証書を見つけて、問いただしたんですって。そしたら、にっこり笑って、これであなたが死んでも大丈夫って言ったそうよ。自殺する前、翔ちゃんの恐怖は頂点に達していたわ」
「中条は、狂っていたんじゃないのか。奥さんの、その言葉だって、仲の良い夫婦であればブラックジョークで済んでいたかもしれない。奴は気が狂って自殺した可能性だって否定出来ない。そうじゃないか」
「ええ、狂っていたのかもしれない。翔ちゃんは、会社でも使い込みがばれそうになっていた。追い詰められていた。それが妄想を生み出したってことも考えられるわ」
「そうだ、そうに決まっている。そんな人を操る力なんてあるはずがない」
「ええ、私もそう思いたい。でも翔ちゃんが言った通りの死に方だったもの。」
「えっ、奴は、ビルから飛び降りるかもしれないって言っていたのか?」
「ええ、何度も何度も夢で見たそうよ。翔ちゃんが寝ている時に、奥さんが耳元で囁いているような気がするとも言っていた。だからあんな夢を何度も見るんじゃないかって」
「しかし、耳元で囁かれたら目覚めちゃうだろう。眠ってなんていられないよ」
「私にだって分からないわよ、何があったかなんて。兎に角、恐ろしくて鳥肌がたつわ。人間の意思を操って人殺しをするなんて、そんな人間がいるなんて信じたくない」
 泉美は桜庭にしな垂れ掛かった。その体重を受けとめるのに腰を固めなければならなかった。泉美はふるふると震えている。本当に恐ろしがってる。桜庭はしかたなく分厚い肉の塊を抱きしめた。普段なら嫌悪感に苛まれただろうが、今は訳の分からない恐怖でそれどころではなかった。



第三章 暗い過去

 恐怖に慄いた夜、桜庭は有無をいわせぬ泉美の力に抗しきれず、ふくよかな肉体に体を埋めた。太った女に興奮する男の感覚は理解しかねるが、果たして、一瞬の悦楽にどれほどの差があるのか判然としないまま、憮然と煙草をくゆらしていたものだ。
 結局、泉美は、香子を魔女にしたて、怯える振りをして桜庭にしな垂れかかり、桜庭を強引に誘い込んだ。そして恐怖に打ち震える女を演じて、桜庭にも香子に対する恐怖を感染させようとしたのではないのか。このように思えてならなかった。

 確かに泉美の狙いは、それなりの効果はあったのである。桜庭は香子に忙しくしばらく会えないと電話したが、それは、香子に恐怖を感じたからに他ならない。近藤、そして泉美と立て続けに、中条を殺したは香子だと言われれば不気味に思うのは当然である。
 しかし、禁断症状に陥った麻薬患者のように、桜庭の心には、いやもっと正確に言うなら、自身の体内に、如何ともしがたい、じりじりとした焦燥とも渇望とも言えない何かが蠢いていて、桜庭を苛立たせはじめた。

 そして、一週間を過ぎたところで、我慢の限界を超えたのだ。桜庭は震える手で香子の携帯番号を押していたのである。携帯から香子のかすれたような声が響く。
「ずっと、ずっと、待ってた。お仕事だから絶対に邪魔してはいけないと思って、ずっと我慢していたの。電話してくれてありがとう」
その声を聞いただけで、既に下半身はぱんぱんに張ってしまって痛いくらいだ。
「ご免、忙しくてどうしても連絡する暇もなかったんだ。今日、会える?」
「勿論よ、ずっと待ってたんですもの。ねえ、お料理作って待ってる。ねえ、何でも言って。食べたいもの、何でも用意するから。肉、それとも魚、ねえ、何か言って、お願い」
 桜庭の心には既に恐怖心の欠片も残っていない。愛おしさ、いや、欲望、いやいや、その全てを含んだ熱情であろう。その熱情を前にしては、根拠のないあやふやな恐怖心など吹き飛んでしまう。雌に食われると知ってか知らずか近付いてゆく雄カマキリのように。
 既に午前零時を過ぎている。胸の内ポケットが振動し、桜庭は相手に気付かれぬよう携帯のスイッチを切ると、なみなみと注がれたビールを一気に飲み干した。山口先輩は、桜庭のいつもの飲みっぷりの良さに驚嘆しつつ、ホステスの尻をまさぐっている。
 今を時めく山口に企画を持ち込めたのは、演劇部の先輩後輩のコネクションがあったからだ。経営陣も桜庭に期待している。もし、失敗すれば期待された分、風当たりが強くなるのは目に見えている。秘密にことを進めていたのだが、上司が会議の席でその場限りの言い逃れのために、この件を上に漏らしてしまった。
 桜庭も必死にならざるを得ない。山口先輩は何だかんだと難癖をつけ、企画書を書き換えさせるが、既に一月が経とうとしているにもかかわらず、一向に方向が定まらない。既に最初の企画案など跡形もなく消えうせ、山口の思い込みばかりが一人歩きしている。

 そのくせ会議の後の接待では、2時3時まで馬鹿騒ぎを繰り返しているのだ。さすがに切れそうになるのを何とか抑えて、桜庭は男芸者を演じ続けた。とはいえ、この山口も陰に回れば演劇評論家の飯田先生に同じように努めていると思えば、社会の在り様はこん
なものかと妙に納得せざるを得ない。
作品名:怨時空 作家名:安藤 淳