怨時空
桜庭はこれを聞いて漸く胸を撫で下ろすと同時に、絶対に結婚しようと決意した。香子は5億の金を持っていることになる。会社など辞めてしまっても良い。ふと、或ることを思い出した。
「近藤さん。ちょっとお願いがあるんですが、相談に乗ってもらえませんか」
近藤は、怪訝そうに顔を上げた。
桜庭が近藤に頼んだのは、かつて泉美の身辺調査した会社を探し出し、調査資料を入手することだった。実を言うと、桜庭はかつて頼んだ探偵事務所を失念してしまったのだ。
神田であったことは確かなのだが、場所も名前も覚えていなかった。
当時、その探偵は泉美の浮気相手を突き止めていた。しかし、離婚する理由が失われ契約を途中解除したのだ。料金が安くなると思ってそうしたのだが、さにあらず、全額請求された。レポートをどうするか聞かれたが、険悪な雰囲気のまま「ドブに捨ててくれ」と怒鳴ったのだ。泉美の相手など見たくも知りたくもなかったからだ。
数週間後、近藤から会社に電話があった。例の喫茶店で待っていると言う。すぐに駆けつけると、以前と同じ席で待っていた。桜庭が席につくと、近藤が口を開いた。
「こんな偶然があるんでしょうか。奥さんの浮気の相手、誰だったと思います?」
「分からないから貴方に頼んだんですよ。いったい誰なんです」
「そう、急かさずに、まず、写真を見て下さい。幸い同業者が、処分せずに残していました。でも、まさかこんなことが……」
桜庭は笑いながら答えた。
「何が偶然だと言うんです。まさか女房の相手が中条なんて言うんじゃないだろうな」
写真を手にして視線を移した瞬間、その表情から笑いは消えていた。目を剥き、あんぐりと口を開け、写真を見詰める。そして視線を近藤に。苦笑いしながら近藤が口を開いた。
「仰る通り、相手は中条さんでした」
その夜、妻の泉美は、10時過ぎに帰ってきた。ブティックは8時閉店だから遅いわけではない。桜庭は居間のソファにどっかりと座った泉美の前に写真の束を投げた。泉美はすぐさま、写真を手にとってじっと見入っている。その目に涙が滲んだ。桜庭は数年前に思い描いたストーリー通り、ここぞとばかりに叫んだ。
「このあばずれが、よくも俺を裏切ってくれたな。まさか、お前が不貞を働いていたとは思いもしなかった。しかも、相手は俺の親友だった」
桜庭は怒りを込めて睨んだ。しかし、浮気相手が死んでしまっているので、迫力に欠けるが、それはいたしかたない。泉美は写真から目を離し指で涙を拭うと、開き直って怒鳴り返したきた。
「あんただって私に恋人がいたことは知っていたじゃない。でも、あんたが見たとおり、彼は自殺してしまった。あれからもう一年になる」
怒りの顔はしだいに崩れて悲しみのそれに変わった。その目から涙が溢れた。何度もしゃくりあげている。ここで同情してはいけない。桜庭は怒りを奮い立たせた。
「でも、そいつが俺の友人だってことは分かっていたのか?」
「いいえ、貴方が、友人が自殺したって言って帰ってきた時、名前を聞いて驚いたわ。まさか、貴方の前で泣くわけにはいかないし、まいったわ、あの時は」
泉美は悪びれる素振りもみせない。桜庭は沸き起こる怒りを抑えるかのように、大げさに肩で息をし、荒い呼吸を繰り返した。そして、無理矢理、怒りを爆発させた。
「ふざけるな、この野郎。許さん、絶対に許さん。離婚だ。もう沢山だ。お前の顔など見たくもない。出て行け。さあ、早く、この家から出て行くんだ」
不貞の証拠をつきつけられ、離婚を申し渡されたのだから、泉美が出て行くのが当然なのだ。裁判で争っても結果は同じである。
泉美は俯いて、肩を震わせている。どうやら泣いているようだ。桜庭は、既に固く決意していることを示すために、顎の筋を強張らせ、目を閉じて腕を組んだ。その時、桜庭は泉美の異様な視線に気付いた。薄目を開け盗み見ると、その目は笑っている。口が割れ唸るような声が漏れた。
「ずるい男だ。全くずるい男だよ。お前は」
動揺しながら桜庭が叫んだ。
「何だと、ずるい男だって、浮気をした女房が何を言っているんだ。盗人猛々しいとはお前のことだ」
「じゃあ、この写真は何なの」
こう言うと、泉美はバッグを引き寄せ、中から何枚かの写真を取りだした。そして、桜庭がしたようにそれをテーブルにぶちまけた。桜庭は指で一枚の写真の向きを直し、焦点を合わせた。そして、目を剥いて驚いた。香子とホテルに入ろうとしている写真だった。
テーブルに視線をさ迷わせるが、どれも似たような写真だ。泉美を見ると、刺すような目で睨んでいる。
「私の方は過去の過ちで、もう終ってるわ。でも、貴方は、今現在、私を裏切っているのよ。その女はいったい誰なの。今までの演技で、あんたが私と本気で離婚するつもりだってことは分かった。でも、私には全くその気はないの」
「演技だって、それはどういう意味だ」
泉美は含み笑いをしていたが、徐々に声を上げ、最後には笑いころげた。気が狂ったように笑っている。桜庭は苛苛しながら泉美の興奮が覚めるのを待った。ひとしきり笑うと、泉美が冷たい視線を向けて言い放った。
「あんたはずっと前から、私に恋人がいることを知っていた。それを見て見ぬ振りをしていた。それは、稼ぎのある私との生活を捨て切れなかったからでしょう。一銭も家に入れず、遊び放題だ。それも悪くないと思っていたんでしょう」
「そんなことはない。俺はお前を愛し……いや、信頼してていた。だから」
桜庭は、せせら笑う泉美を見て、さすがに自分でも恥ずかしくなった。矛を収める時かもしれない。桜庭は狡猾そうな笑みを浮かべながら言った。
「いやはや参った。まさか写真を撮られていたとは」
鬼のような顔になって泉美が叫んだ。
「誤魔化すんじゃない。いったい誰なんだ。この女は誰なんだ」
桜庭は、言葉に詰まった。どうやら、泉美は香子が中条の妻だったということには気付いていない。泉美はまるで山門に立つ仁王のように、恐ろしい形相で睨んでいる。桜庭は尋常でないその様子に恐怖を抱いた。そして言葉が衝いて出た。
「分かった、もう、あの女とは別れる。だからもう何も言うな」
「本当なんでしょうね。もし別れなかったら、覚悟しなさい。慰謝料だけじゃないわ。こ
のマンションだって奪いとってやる」
「ああ、分かった。本当に別れるって。だから、落ち着けよ。俺は嘘は言わん」
こんなやり取りが30分も続いた。お互いに意味のない会話であることは分かっていたが、少なくとも泉美の興奮を押さえるのには役立った。桜庭は話題を変えようと、おもねるように言葉をかけた。
「まったく中条が、死んでしまうなんて、お前もショックだっただろう」
般若のような顔が、一瞬和んで、泉美は遠い目をして答えた。
「いい人だった。太った淑女が好きで、本当に私を愛してくれた。私の全てを受け入れてくれた。私もあの人を愛したわ」
二人が絡み合う姿を想像し、桜庭はぞっとした。そんなことなどおくびにも出さず、懐かしむように言った。
「本当に、あいつは良い奴だった。大学では一番気が合った」
「本当に良い人だったわ。それを、あの女房が殺したんだ。保険金目当てにね」