怨時空
桜庭はベッドで煙草をくゆらせながら、この不思議な縁に思いを巡らせていた。香子は桜庭の腕に頬をのせ、静かに寝息をたてている。長い睫、すっきりとした鼻梁、小さな唇。何もかも桜庭の好みだった。その香子を初めて見たのは、中条の葬式である。
その日、お焼香の順番を待つ間、桜庭は喪服に身を包む若妻に目を奪われた。喪服姿の彼女は艶やかな色香を漂わせながら、弔問客一人一人に慎ましやかに辞儀を繰返していた。厳かな雰囲気が更に妖艶さを際立たせるていた。それが香子だったのだ。
再会は、それから一年ほど経ったある夏の日で、桜庭はCM撮影の立会いで江ノ島の海岸にいた。撮影が無事終了し、女性タレントはそそくさと車で引き上げ、製作会社の担当者達が撮影機材を片付け始め、その彼らもいなくなると、桜庭一人残された。
撮影を見学していた人々も、タレントが帰ると潮が引くように消え、夏の海の風景に戻っていた。背広姿の桜庭は明らかに場違いである。桜庭は、くわえ煙草で、ぎらつく太陽を睨み上げた。それが自分では格好良いと思っている。
そこに大胆なビキニ姿の女性が近付いて来た。形の良い胸、くびれた腰、すっきりと伸びた脚、桜庭の視線は再びこぼれんばかりの胸に取って返した。と、その女性がにこりと微笑んで声をかけてきたのだ。
「その節は……」と言って、はにかむように佇んでいる。その顔に見覚えがあった。桜庭はすぐに思いだし、微笑みながら言葉を返した。
「どうも、しばらくでございます。その節は本当に、お言葉をかけるのも痛々しかったものですから、ろくなお悔やみも申し上げられませんで、申し訳ございません」
「いえ、とんでもございません。皆様の、あの演劇部の皆様の、励ましのお言葉は今でも心に残っております。あれから上野さまも、お線香を上げに何度かお見えになられて…」
と言って微笑んだ。桜庭は心の中で舌打ちした。上野の下心はみえみえだ。若後家の隙の乗じてものにしようとしたのだ。しかし、その企みが成功しなかったことは、今の微笑みが物語っている。意外に世慣れした女だと思い、桜庭は心中ほくそえんだ。
その時、三四歳の子供が走り寄ってきて女の脚に絡みついた。女はその子を抱き上げて言った。
「翔の忘れ形見、詩織です。さあ、詩織ちゃん。素敵なおじ様に、ご挨拶しなさい」
思わず頬擦りたくなるほど可愛い子供だった。桜庭ははにかむ子供の頬を指先でつついて挨拶した。
「詩織ちゃん、桜庭と申します。よろしくね」
子供の邪魔にあって、この心時めく再会ははこれで終わりを告げたのだが、自宅も電話番号も知っているのだから、上野と同じように、お線香を上げに行けばよい。別れ際にみせた女のねっとりとした視線は、それを待っていると匂わせているようだった。
そして数日後電話をかけ、自宅に押しかけ、そしてなるようになった。香子は中条の二番目の妻で、あの日は先妻が残した二人の子供と別荘へ行っていたのだという。葬式に訪れ、二言三言言葉を交わした桜庭を覚えていて声を掛けてきたのだ。
中条は最初の妻を31歳の時に亡くし、自殺する二年前、総務部の部下であった11歳年下の香子と再婚した。事件後、香子は旧姓に戻り、中条の残してくれた狛江の600坪の自宅に二人の子供と住んでいる。
着替えをすませるとベッドに腰掛け、安らかな寝息をたてる香子の横顔を見詰めていた。髪を撫でると、香子が目を覚ました。桜庭が声をかけた。
「ご免、起こしたみたいだね」
「いいの、起こしてくれて良かった。そろそろ夕飯の時間だわ。一緒にお買い物に行きましょう。ねえ、今日は何が食べたい」
体を起し、瞳をくりくりさせて問う。
「そうだな、うーん……」
答えなどあるはずもない。家に帰る前に実家に寄って母親から小遣いをせしめなければ今月乗り切れない。
「ねえ……」
「申し訳ない。悪いけど、そろそろ帰らないと。女房には箱根で接待ゴルフだと言ってある。だから、今、ぎりぎりの時間だ」
「だってまだ早いじゃない。奥さんがそんなに怖いの?」
「いや、実家に……、実は母親が寝込んでいる。見舞ってやらないと……」
そんな言い訳など聞こえなかったように反論する。
「それとも、奥さんのところに帰りたいっていうこと?」
「そんなことない。勿論君と何時までも一緒にいたいさ。だけど、それは今のところ叶わないんだ。そこを分かって欲しい」
香子の見上げる瞳が潤んでいる。今にも泣き出しそうだ。
「そんな悲しそうな顔をするなよ。俺だって仕事も接待もあるのに、週2回も機会を作っているし、こうして週末だって泊まりにきている。これ以上、俺を困らせるなよ」
香子の唇が動いた。小さな声だ。桜庭は聞きとれなかった。
「今、何て言ったんだ?」
「……」
俯いたまま目を合わそうとしない。桜庭が顎に手を添え、顔を持ち上げた。涙が一筋こぼれて、桜庭の指を濡らした。小さな唇が開かれた。
「でも、毎日、会いたいんだもの」
こう言うと、背中を向けて肩を震わせている。桜庭は両手で香子をぎゅっと抱きしめた。香子のしっとりとした肌が掌に吸い付く。胸がきゅんとして切なく、可愛さ、愛おしさで胸が一杯になる。その時、女房と別れようと決意した。
そんな或る日、一人の男が会社に桜庭を訪ねてきた。受付で顔を合わせると男は秘密めいた微笑みを投げかけてくる。受け取った名刺を見ると近藤探偵社とある。近くの喫茶店で話を聞くことにし連れ立って会社のビルを出た。
店に腰を落ち着け、コーヒーを二つ注文する。探偵は、コヒーが運ばれ、ウエイトレスが去ると、開口一番こう切り出した。
「中条さんは、あの女に殺されたんです」
桜庭は黙って探偵の視線を受け止めている。中条は、桜庭の見ている前で自殺した。他殺などありえない。心のうちでせせら笑っていた。近藤が続けた。
「中条さんには3億の保険金が掛けられていました」
こう言うと、探偵は視線を真っ直ぐに向け、桜庭の反応を見ている。桜庭は微笑みながら答えた。
「実は近藤さん。中条が自殺するその現場に、私は居たんです。勿論、警察ざたは困るので、秘書の方に断ってその場を立ち去りましたがね」
「ほう、現場にいて、ビルから身を投じるのを見ていたと言うのですか」
「ええ、私と秘書の女性、二人で見ていました。止める暇もなく、中条はあのビルから飛び降りたのです」
「なるほど」
近藤はじっと桜庭の目を見詰めたままだ。すると今度こそとどめを刺すといった調子で、顔を近付け声を押し殺して言い放った。
「彼女が保険金を手に入れたのは、これで2度目です」
桜庭はここで初めて表情を変え、口を開いた。
「ということは、結婚は二度目ってことですか」
「ええ、最初は18歳の時、やはり10歳年上の方でした。その方も結婚して二年後に自殺して、彼女は2億の保険金を受けとっています」
「でも、何度も言うが、中条は私の目の前で自殺した。彼女が殺したわけじゃない」
「ええ、その通りです。前の事件では、彼女、もしくは恋人が犯行に及んで、自殺に見せかけることも出来た。しかし、今回はさっぱり分からない」