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怨時空

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 秘書が重厚なドアを外側から開け、総務部長室に入るように促している。桜庭も鷹揚に頷き、歩を進める。秘書と目が合った。美人だがどこか冷たい表情が、一瞬、桜庭を不安にさせた。そんな思いを振り払い、桜庭がドアの内側に顔を覗かせた。
 中条は昔のままの顔でそこにいた。桜庭はにやりとして室内へ一歩入った。中条の顔が一瞬にして歪んだ。そしてうわずるような声を漏らした。
「お前は、死んだはずだ。な、な、何故……」
絶句したまま唇を震わせた。まるで幽霊にでも出会ったように驚愕の表情のまま固まっている。桜庭は秘書の方をちらりと見て言った。
「おい、おい、俺が死んだなんて誰から聞いた? 俺は確かにこうして生きているよ。それに、こちらの秘書の方に電話して、俺の名前を言ったはずだ」
見る見るうちに中条の顔は、恐怖で引きつってまるで別人のようだ。椅子から立ちあがり、よろよろと桜庭から逃げようとする。足元がおぼつかない。机の上の水差しがガチャンという大きな音をたてて倒れた。桜庭はあっけにとられ、見ているしかなかった。

 部長室の物音に驚いて、秘書が桜庭を押しのけ部屋に入って来た。秘書は思わず手を口に当てた。異変に気付き、中条に声を掛けた。
「部長、どうなさったのです。桜庭様です。サンコー広告の桜庭課長です。アポイントは頂いております。部長にもそう申し上げました。……」
中条は、這いつくりばりながら窓に向かった。レバーを握って、窓のガラス戸を開けようとしている。ようやくこじ開けると、そこに右足を上げ這い登った。秘書の悲鳴が響く。その声に振り返り、中条は恐怖に歪んだ顔を桜庭に向けた。
 その目は桜庭に救いを求めるかのようだ。その顔が奇妙に歪んだ。頬は恐怖に震え、唇には泡を浮かべている。レバーを握った手の指が一本一本離れてゆく。中条の視線が自らの指に注がれ、絶望がその顔に広がった。
 次いで中条の視線は深い谷底へと向けられた。桜庭からその表情は見えない。その体がスローモーションのごとくゆっくりと傾き、奈落の底へ落ちてゆく。「ぎゃー」という悲鳴が次第に遠のいた。19階のビルから、中条が飛び降りたのである。
 桜庭は唖然として見ているしかなかった。秘書は悲鳴を上げながら窓に近寄った。窓から下を見下ろしていたが、しばらくして腰が抜けたようにへたり込んだ。

 桜庭は咄嗟にここに残るのは得策ではないと判断し、必死の思いで秘書に声を掛けた。
「申し訳ないが、私はこれでお暇するよ。あんたも見ていただろう。私は彼に何もしていない。奴が勝手に飛び降りたんだ。俺はこの事件とは何の関係もない、そうだろう」
 秘書は顔面蒼白のまま頷いた。エレベーターでロビーまで降りた。誰も異変に気付かず、何事もなかったように、笑い、話し、或いは黙々として行き交う。ビルを出ると、遠くに人だかりが出来ている。血の海に横たわった中条の姿を想像して鳥肌が立った。
 桜庭はその方向に向けて合掌し、そそくさと歩き出した。後を振り返らず、足の裏のみに意識を集中し歩きに歩いた。頭の中は真っ白だった。何故、何故、その言葉だけが宙に舞っている。何の答えもないまま、30分ほど歩き続けた。

 ふと、中条の特異の性格を思い出していた。中条は極端に集中力のある人間だった。のめり込むと回りが見えなくなってしまう。意識が一点に集中する様子は、見ていても分かった。演劇にはそういう能力が必要なのかもしれない。
 しかし、その才能は、プラスにも働くこともあるが、マイナス面もなきにしもあらずで、総務部長になれたのは、その才能がプラスに働いたからかもしれないが、結局自殺したということはそのマイナスの面が一挙に吹き出した結果とも考えられる。
 桜庭は中条の恐怖に慄く様子を思い出し、自らも震えた。中条は何に怯え、何に恐怖したのだ? 桜庭の突然の訪問が彼に異常をもたらしたのか。しかし、アポはフルネームで取ったのだから、桜庭が来ることは分かっていたはずである。
 それにしても、最初の一言が気になった。「お前は死んだはずだ。……」とは、どうい
う意味なのか。中条は誰かから桜庭が死んだと聞かされていた。それが生きていたと知って、驚きのあまり気が狂ったのか。しかし、その程度のことが引き金になるとは思えない。
 中条はそれ以上の何かに恐怖していた。まして自殺とはいえ何処か不自然さが伴う。あのギクシャクした動きは尋常ではない。まるで操り人形だ。中条を操る黒い影? 想像した途端、背筋に冷たいものが這い上がり、ぞぞっと体が震えた。

 その夜、桜庭はぐでんぐでんに酔っ払って家に帰った。飲まずにはいられなかったのだ。真夜中を過ぎており、泉美は寝ているはずだが、居間には人の気配がする。一瞬、恐怖にかられたが、恐る恐るドアを開けると、泉美のでっぷりとした後姿が見えた。
 桜庭はほっと胸を撫で下ろし、居間に入ると幾分おどけて「おす」と言って、女房の向いに腰をおろした。
「水をくれ」
泉美は無言でソファから立ちあがった。桜庭は、その背中に声をかけた。
「今日、俺の大学時代の友人が自殺した。俺の目の前で」
泉美は振りかえり、大袈裟に驚いて見せた。
「本当、貴方の目の前で。そんなこと信じられないわ。でも何で?」
「それが分からないんだ。そいつは俺が死んだはずだって言った。つまり、死んだはずの人間が尋ねてきたもんだから、驚いて正気を失ったのかもしれない」
「でも、そんなことで気が狂うほど驚いて、自殺するかしら。誰かから、あいつは死んだと聞かされていても、本人が現れれば、あれー、お前死んだって聞いたけど、とかなんとか言って、それで終わりよ」
「ああ、その通りだ。まったく、何故あいつが自殺したかさっぱり分からない」
こう言った瞬間、ふと、あの事件のことが脳裏をかすめた。あの事件が引きがねとなった可能性は否定出来ない。桜庭と同じように、あの日、中条も時効成立を祝ったであろう。そして忘却の彼方から共犯者が現れ、自制心を失ったのか?
 或いはあの少女が……。ガラス越しの深い闇の彼方からふわっと少女の面影が浮かんだ。心臓の鼓動が聞こえそうなくらい高鳴った。慌ててその面影を手で払いのけ、頭を強く横に振った。泉美が水を満たしたコップを運んできた。そして言った。
「でも、大学時代の友人なんて聞いたことなかった。そんな親しい人がいたなんて、あんた一言も言わなかったじゃない」
桜庭は恐怖から立ち直り答えた。
「ちょっと厭なことがあってな、卒業後は付き合っていなかった。でも、本当に気の合う奴だった」
「何ていう人、その人」
「中条っていう。中条翔。本当に良い奴だった」
泉美はくるりと踵を返し、台所に消えた。暫く音沙汰なかったが、洗物をしているらしい。こんな夜に、洗物? 不思議に思ったが、気にもとめず水を一気に飲んだ。考えてみれば、女房とこんな普通の会話を交わしたのは久しぶりであった。

 台所から声が聞こえた。よく聞き取れず、怒鳴った。
「おい、何て言ったんだ」
ややあって、泉美が大きな声で聞いた。
「その人、何処に勤めていたの」
「三和自動車だ。そこの総務部長だった」
「へー。」
会話はここで途切れた。



第二章 疑惑
作品名:怨時空 作家名:安藤 淳